崇高と日常との対比のなかで作品を捉えたとき、僕は崇高的なものは縁遠いように思っていたけれど、考えてみると(僕にとっての日常的なものの代表格である)フィッシュマンズの終わりの頃の音楽には、崇高と呼べる質があるかもしれないと思った。
あとついでに思い出したけれど、淀川長治がロッセリーニとゴダールを映画の破壊者のように言っている。
ヨーロッパには、二人犯罪者がいるのよ、ロッセリーニとゴダール。この二人が映画を潰してしもうたの。この二人を、私、一生恨んでんの、嫌いで、嫌いで(笑)。あんな奴がいるから、映画は誰でもつくれるみたいになっちゃったのよ(笑)。
───淀川長治・蓮實重彦・山田宏一『映画千夜一夜』中央公論社、1988、p.742
ロッセリーニは映画に日常を持ち込んだ人というイメージがあるけれど、そこに〈破壊的性格〉を見いだすことができるだろうか。しかし、破壊はしたとしても破壊が目的ではないだろうから、ベンヤミンの主旨とは異なるかもしれない。崇高を志向しているわけでもないだろう。