ベンヤミン「破壊的性格」(高原宏平訳、『ベンヤミン著作集1』晶文社、1969)を読んだ。日本語版で3ページ半に満たない短いエッセイで、初出は『フランクフルト新聞』1931年11月20日。すこし前に多木さんをめぐってツイッター上で岡﨑乾二郎さんに質問を投げかけ、そのお返事のなかで紹介してくださったテキスト。
岡﨑さんのツイートは下でリンクさせていただいたけれど(じつはこの一連のやり取りの裏で、非公開のダイレクトメッセージを50通以上いただいている)、岡﨑さんの見解としては、多木さんがある時期から(1980年前後)〈崇高〉という概念に接近しはじめたことに戸惑った、それは未来派やファシズムに通じる傾向であり、ベンヤミンが書いた〈破壊的性格〉と重なる、ということだと思う(下の原文で確認してください)。
これに対して僕は、多木さんが〈崇高〉に接近したということまでは分かるのだけど、そのことが多木さんの活動の全体においてどう位置づけられるのか、また『多木浩二と建築』で扱った坂本一成論や日常性の議論とどういう関係があるのかが分からなかった。
それで「破壊的性格」を読んでみたのだけど、やはりよく分からない。岡﨑さんが(ダイレクトメッセージで)仰るように、〈破壊的性格〉はそのまま悪ではない。例えば「破壊的性格は、額ぶち型人間の敵対者である。額ぶち型人間は、安全第一主義のなかにおさまっており、その実体は外枠である。そして枠の内側には、自分がこの世にしるした足跡がビロードでふちどられている」という対置がされているとおり、〈破壊的性格〉は一種の生の原動力であり、それがまったくない状態が称揚されているわけではない。だからこのテキストで断片的・断定的に繰り返し定義されている〈破壊的性格〉が、だれか身近な人の性格と多少重なったとしても不思議ではない。けれどもベンヤミン自身はこのテキストで、そうした部分的な重なりのレベルではなく、〈破壊的性格〉がもっと極端に支配的になった状態を問題視しているのだと思う。「だれの眼にも〈破壊的性格〉とうつるひとびとがいる」や「破壊的性格がかかげるのは、〈場所をあけろ!〉というスローガンだけ」といった表現にはその意図がうかがえる。そして果たして多木さんは「だれの眼にも〈破壊的性格〉とうつるひと」なのだろうか。それはたぶん違うだろう。疑問は振り出しに戻り、多木さんにおいて〈破壊的性格〉(〈崇高〉への接近)とはどういうことだったのかと思う。僕の予想では、1980〜90年代に見られた多木さんのそのような傾向は、90年代末から2000年代にかけて、日常性の重要視というかたちで揺り戻しがあったのではないかと思えるけれど、そうして多木さんの全体像を捉えられるほど多木さんのテキストを読んではいない。
ところで、こういったことを考えるときに、『多木浩二と建築』のインタヴューで坂本先生が繰り返し言われている下記のようなスタンスは重要ではないかという気がしてきた。
───それは幾何学に限らず、ある種の原理主義に対する疑問ではないでしょうか。それが幾何学ではなくて、日本の伝統的形態だったとしても違和感がある。要するになにかに偏っていることが。
坂本 それはそうかもしれません。極端なイデオロギーに向かうことに対して、僕は駄目なんでしょうね。(p.108)
坂本 ある方向に行きすぎた強いイデオロギーが色んなことを硬直させる、そんな思いが僕のなかにある気がするんです。だから今も常にやりすぎないようにする。(p.145)
坂本 [略]結局、僕は理想的な建築や環境や社会を求めているわけで、その理想はなにかと言うと、少なくとも全体主義ではない。国粋主義でもないし、極端に世界を裏返そうというわけでもない。ブルジョワジーの世界でもない、格差社会でもない。つまり、よい意味での市民社会で成立するような環境を望んでいる。それは僕だけでなくてみんなそうかもしれないけど、いわゆる強いイデオロギーから乖離した世界を理想とするところがあった。(p.183)
ひどく大雑把に言ってしまえば、人間が考えることはなんであれ、それが極端な状態にまでいってしまうと、なにかよからぬことが起きるということではないだろうか。その極端化は、その人自身のなかで進行することもあれば、その人から出て社会や歴史のなかで進行することもある。例えばそれは『建築と日常』No.2(→)の立岩真也さんへのインタヴューのなかで、ジョン・ロック(1632-1704)という人について感じたことでもあった。立岩さんは、ロックが論理化した所有概念(自分で働いた分だけ自分で所有できる)が現代のネオリベラリズム的な潮流の源泉になっているとして、それを批判するわけだけど、
───でもロックは、絶対王政に対して個人の所有を正当化したわけですよね。だからロックさん自身はむしろ平等化を目指してそういうことを言った。
立岩 もちろんそうだと思います。だからそれは圧倒的に魅力的だったわけですよ。だって王様がほとんどの富を持っていて、下々がそれに従属しているという時に、そうではないという仕掛けを言ったわけですよ。それはかなり多くの人にとって大歓迎ですよね。
僕が前から言っているのは、たとえば王様が九〇%の土地を持っていて、下々がちょっとずつ持っている、その割合が先祖代々決まっている、その仕組みは悪い。それに比べてロックが言ったことはまだましだというか、納得できる。だけどそうやって王様だからこれだけ所有しているとか──社会学で属性原理と言いますが──、それがまずいということが、イコール近代社会が代わりに持った原理が正しいということにはならない。あっちが×だとしてもこっちが○になるとは限らないし、△かもしれないし、ある意味こちらも×かもしれない。そういう話です。
───ロックはその時にそういうことを言って、世の中的にはというか、歴史的にはよかったんでしょうか。言わないほうがよかったんですか?
立岩 言わないよりはよかったんじゃないですか。(p.61)
ロックの文章を読んでみて、現代のネオリベラリズムの論理のような嫌な感じはしない。ロック以外では、デカルトやマルクスなども、その思想が社会のなかで極端化した代表的な人たちなのだろうと思う。
そんなところで『中庸』(『大学・中庸』金谷治訳注、岩波文庫)に目を通してみた。〈中庸〉は〈倫理〉とも関係が深いらしい。
子曰わく、「中庸は其れ至れるかな。民能くする鮮(すくな)きこと久し」と。(p.146)
以下、ツイッターより。
「日本写真の1968 - 東京都写真美術館」 を見る。出たら涼しくなっていた。多木浩二さんのことをいろいろ考える。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
多木さんの読者となりゼミを受講するようになったのは1977年の頃だったけれど、当時の多木さんは膨大な知識を動員して文化現象を読み解く碩学として現れた。当時の生意気な学生はこの迷宮に溺れつつも、多木さんが最後にきっと洩らす一つの問に狙いを定めていた。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)いわば日常の細部に至るまで網の目のように張りめぐらされた、この無意識化した(不可視の)無数のコードのネットワークをくぐりぬけ、唐突に「コードなきメッセージ」が現れる、コードそのものを改変し、意味作用そのものが生産される場面、それは何かという問い→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)多木さんに毎回学生が聞く「それは何か?可能?」という問は不躾だった。日常を構成する細部(事物)への注目は、細部が、日常という自明性の全体に穴を開ける可能性あるゆえだったが、膨大な知による解読作業はその可能性をいちいち潰し、無自覚だったがコード化された欲望を発見していくのみ→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
ごはんを食べた(続き→)コードなきメッセージ、は勿論ロラン・バルトの言葉。これをどう解釈するか、どう解いてくれるか、がその当時の多木さんのゼミをとるもの、テクストを読むものにとっては当然、いちばんの関心どころであった。→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)例えば、ときに写真は見たこともないものを見せる。それは主観が外部と出会う経験と似ている。がその逆説は写真に「何かを発見した」は主観に生じた出来事であり、その原因を例え、外部対象に確かめることはできようと、それを客体的に(対象の属性として)位置づけることはできないということ→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)バルトにとってコードなきメッセージとは外部対象ではなく対象を経由して行われる自己再帰メッセージだろう。がここに意味作用全体を揺るがす亀裂=差異が忍び込む。私たちは自分の極私的な(自覚もしなかった)関心が対象としてそこに現れてしまっている=存在する。のに出会うのである→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)多木さんの「生きられた家」の思考は、まさにこのような回路と繋がっていたように思える。そこで家は、誰にとっても客体的にあるものではなく、それぞれにとってのみは、確かに客体的で外部の対象として(主観に決して回収できず、自らに対峙するものとして)存在するものだった→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)そこで対象とは幽霊(に出会う経験)に近い。幽霊がたとえ対象として定位しがたく定位すれば必ずフェイクだと見なされてしまうとしても、その人にとって出会ったという経験=出来事があった事実は疑いようがないのである。つまりその出来事は明らかに主観の外である。つまりゆえコード化できない。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)写真とは画像(対象)として自律(独立)しえない。写真を自律させようと試みても、その試みには写真家(鑑賞者)の視線(身体)が循環的に必ず巻き込まれてしまうのである。問題はこの回路である。「生きられた家」は、写真論が建築論より理論的に先行していたことを示しているとも思った。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)あえていえば、きちっと対応する仕事をしているのはアルト・ロッシくらいかも知れない、とも思った。いうまでもなく「生きられた家」は、ずっと後にでたヴィドラーの「不気味な建築」にはるかに先行していたともいえよう。けれど、→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
確か眼の隠喩には、コードなきメッセージの例として(手元に本がないので正確な引用できず)、南北戦争の頃の写真家サリヴァンが撮影した http://t.co/TtgZHS7AC7 シェイ渓谷の先住民の遺跡。これについての多木さんの分析は無条件に「自然」(たしか)力の発現と…
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)正直いって戸惑った。多木さんはあきらかに「崇高」という概念に近接させ説明しようとしている。コードなきメッセージを「崇高」の論理に近接させ解釈してしまうのは生産的だといえるのだろうか? もう80年代に入りつつあった。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承)僕はこのような推移のなかで、多木さんの、理論を超えた(コードから外れた)(が身体の政治として、容易に外せない)「好み」というものが、現れつつあるのを感じるようになった。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
承) で、日本写真1968 を生きられた写真1968、あるいは1968 写真は生きられた」と鑑賞。68年確かに写真は客体=対象でなく、生きられない限り、対象としても像としても現象しないと自覚された。それは存在しない。が写真を撮るとその幽霊=主観は客体として無様な姿を晒すのだ。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 15, 2013
昨日、多木さんの「生きられた家」に対応しアルト・ロッシを想起と書いたが、忘れてたが、プロヴォークの仕事に建築で対応していると考えていたのは、むしろベルギーの建築家ルシアン・クロールだった。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
http://t.co/pAJswLRZwI http://t.co/cUYDvDpE8f ←例えば後から開けられたような、この窓。 この窓を見るとこの建築はこの建築でなくなる、すなわち突き刺す(プンクトゥム)。http://t.co/1n954sqqfS
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
承)クロールは後のマッタ-クラークの仕事を遥かに組織的に集団で(肝心なのはゆえにクラークができなかった作者不明のものとして)徹底した。建築の総体としての相は姿を失なう。建築はその都度それを見る人間に生きたもののように対峙し立ち現れる(生きられる)。バリケードがそうであるように。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
承)けれどクロール→マッタ・クラークの線は無論、クロールに多木さんが興味を持つことはなかった。クロールが68年のoccupyが生んだ建築における最も生産的な理論だと考える人は少なかった。としてもここを外して(飛ばし)八十年代にキーファーの崇高、へ向かう多木 さんには戸惑った。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
承)クロールの仕事は、ハーバーマスが言及した所為もあり、所謂、対話的な(素人たちによる)コミュニティハウジングの事例と見なされるようになっていた。けれど窓に斜めに角材を立てかけるだけで建築という全体像に穴があく、と管木志雄さんが考えたように接続するラインはいくらもあった。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
承)共同体的なものに回収されてしまうことについての徹底的な嫌悪は共感できた。(がクロールの方法こそそうだったのに!)77年に多木さんはゼミでマリオ・プラーツを取り上げた。→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
承)すでにマリオ・プラーツの生活をモデルにした、ヴィスコンティの「家族の肖像」が数年前に公開されていた。それ以来、この映画の老教授の姿に、多木さんの姿が、重なるようになった。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 16, 2013
多木さんの活動は幅広いと言われますが、80年代に崇高という概念に向かったことが、その後の多木さんの活動全般を規定(象徴)するような出来事だったということでしょうか? というのは… @kenjirookazaki
— 長島明夫 (@richeamateur) July 17, 2013
『多木浩二と建築』の坂本一成さんへのインタヴューでは、篠原一男のクライマックス的表現から坂本一成のアンチクライマックス的表現へ、多木さんの関心が移っていった(70年代後半)という見立てだったのですが、それは崇高への接近とはベクトルが逆な気がします。 @kenjirookazaki
— 長島明夫 (@richeamateur) July 17, 2013
@richeamateur 前提確認として。当時喧伝されたポストモダニズムは端的にモダニズムの失敗=敗北を意味するもののはずでした。モダニズムが失敗したのであればモダニズムが切断したはずの有象無象、無数の文脈も階層なく入り乱れ復活してくる。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
.@richeamateur承)すなわち改めて歴史の厚み、澱みが現れ、それに包囲される。様々なローカルなルールときに迷信と区別つかぬ土地の怨霊さえも名誉恢復する。当時の多木さんが対峙していたのも(モダニズムの視界の外から蘇りつつあった)この歴史の厚み=澱みだったはず。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
.@richeamateur 承)けれど当然、であれば西欧と日本では事情が異なる。例えば日本で西欧の歴史的意匠の様々は(歴史的文脈と対峙することなしに)かなりお気楽に操作できる。すなわち近代化の初め、明治の疑洋風と同じく(そう考える人もいた)表層の操作で済む。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
@richeamateur承)ゆえに60年末以来の日本のポップな記号建築がポストモダンに先行してると当時扱われたとしても西欧においてポストモダンは決してお気楽でなくむしろ鬱陶しい歴史の澱み、複数の文脈の容易に解決できぬ葛藤の復活を意味したゆえ、厄払い役としてちやほやされただけ
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
@richeamateu承)日本では西欧由来の歴史的意匠を用いようと、この歴史の包囲(いまここにある身体として包囲する歴史)に出会うことはない。西欧の疑似歴史意匠を扱う限り、むしろポストモダンはいかなる歴史からもモダニズムの規範からも解放された、非歴史的な場への逃避を示すだけ
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
@richeamateu承)日本におけるポストモダニズムの下品=忌むべきはこの忘却と能天気。多木さんはdignityの欠如と。そもそも歴史の瓦礫に包囲されているという憂鬱、絶望もなしところに、ベンヤミンのいう歴史の天使が訪れるはずもない(と多木さんも感じていたのでは)。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
@richeamateu承)この鬱陶しいポストモダンの迷路(出口を失い、瓦礫として、渦巻くだけの歴史主義の閉域)を突破する原理として再び「 抽象」の意味が読みなおされ、大雑把にいえば、そこに表象の限界(破綻)を示す崇高が、見いだされたのだったと思い起こされます
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
.@richeamateu承)おそらく日本の、近代以降形成された見近な日常、ルーティン化した制作論理の中でだけ、例えば、住宅を捉え制作するだけではこの恐るべき歴史の澱み、層に出会うことはない。むしろ建築家ではなく、生活者こそがこれに縛られているはずなのだけれども。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
.@richeamateu承)福岡ネクサスから帰った多木さんがコールハースを褒め「日本の建築家と根本的な力量がちがう。そもそも相手にしているものが違う」と。重要なのは「相手にしているものが違う」という言葉。それはキーファーを褒めるときもピナ・バウシュを褒めるときとも同じだった
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
.@richeamateu 承)多木さんにとって芸術は象徴に位置づけられるものだったのでしょう。すなわち芸術は表層的生活の諸事情など突破し垂直に歴史から引き出される。あるい歴史に向かって、杭のように打ち込まれるものだった。われわれの所与としての身体がそうであるように。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
.@richeamateu 承)以上は、多木さんの諸テキスト(今、身近にないので)にあたることなく、いくつかの思い出とかって読んだ記憶を元にした個人的感想(印象)にとどまります。改めて読み直してもみます。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 17, 2013
承)追補「〜星田の経験を分析する」1992の最後で多木さんは半ば唐突に、自己同一性を喪失した他者たちが、何の保証もない不安に包まれつつ行き交う(が、これほど自由な空間もない)―巨大な力の作用としてある、こうした空間(空虚)こそが、現在の社会であり、この巨大な力としての空間(空虚)
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
承)この巨大な力の生む空虚―いかなる個人も特性を喪失(他者とし)、巨大な力と向き合わせる。建築の可能性はこの空虚を空間として構成することではないか、と。こんな多木さんの思考にコールハースへの傾倒。いや未来派―ファシズムに通底する崇高への傾斜を感じました.@richeamateu
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
多木さんにおける崇高概念というのは、坂本一成さんをめぐる言説に限らず、おそらく建築畑の人にはなかなか実感しづらいのではないかと思う。『多木浩二と建築』の中井邦夫さんの論考でも、多木さんが70〜80年代にかけて、象徴論から記号論へ、隠喩から換喩へのシフトがあったと指摘されていた。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
中井さんが指摘されたことも、たぶん崇高への接近とはベクトルが逆の現象だろう。それを多木さんのアンビヴァレンスや多面性、幅の広さと言ってもよいのかもしれないけど、そのそれぞれの関心がどう関係しているのかを知りたくて、岡﨑さんに質問してみた次第。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
というかよく考えてみると、崇高という概念のことをよく知らなかった。知識人がそれに接近するということは、人間にとってのなんらかの重大事を捨象して、判断停止の状態に陥るということだろうか。他者との関係を断絶あるいは強制するようなことに通じるのだろうか。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
僕が多木さんにおける「崇高」がよく分からない(かつ知りたい)のは、晩年の多木さんにおけるキーワードの一つである「日常性」に、とりわけ僕が関心をもっているからかもしれない。崇高と日常性は、どことなく対立する概念のように思えるから。それがどう共存していたのか。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
多木浩二「考えてみると人間を構成しているのは、大変な思想であったり、芸術であったりするよりもまず日常生活なのです。日常生活こそが人間の文化をつくりあげているひとつの技なのです。」(『映像の歴史哲学』みすず書房、2013、p.191)
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
ということで、岡﨑さんのお返事も受け止めつつ引き続き考えてみたいと思うのだけど、僭越ながら岡﨑さんが最後に「どこかで見た 見たこともない町──星田の経験を分析する」を引いて指摘されたことは、僕は読み違いではないかと思う(多木さんの元の文章があまりうまくないのかもしれない…)。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
そこでは「見知らぬ国の巨大な空港」がイメージされているのだけど、多木さんにおいて空港は、国家や階級や人種など様々な枠組みから解放され、個人が個人としてさらけ出される場として認識されている(空港をめぐる他のいくつかのテキストも読んでそう思える)。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
言ってみれば自らの所属がゼロに近い状態であって、そこでは「国とか共同体とか、人間の精神の目を眩ませてしまう虚構から逸脱しているから普遍的な人類の不安と悲しさを感じうる」のかもしれないけど(出典「トランジット・ゾーン」『思想の舞台』新書館、1996、p.303)、
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
同時にまたそのような場においてこそ、「自分の自由だけではなく、他者のことを自分の問題にしうる人類という視野」(同p.305)の可能性が見込まれてもいるのであり、少なくともファシズム的な全体主義とは真逆の、どちらかといえば個人主義的な、醒めた認識を前提にしていると思う。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 18, 2013
@richeamateur お答えに代えてベンヤミン「破壊的性格」から → 破壊的性格がかかげるのは〈場所をあけろ!〉というスローガンだけであり、その行動も〈とりのぞき作業〉のほかにはない。さわやかな空気と自由な空間への渇望は、いかなる憎悪よりもつよい。→
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
→ 破壊作業はひとびとを若がえらせる。なぜならそれは年齢の痕跡をきれいにとりのぞいてしまうからだ。破壊作業はひとびとの気持ちをはれやかにする。なぜならどのようなとりのぞきの作業でも、破壊的な人間にとっては、自己の現状の完全な還元を、いわばルートをひらく開け方を意味するからだ →
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
→ 破壊的性格はいかなるヴィジョンをもいだかない。欲望もあまりない。破壊したあとに何があらわれるかなど、破壊的性格にとっては、つまらぬことかもしれない。 →
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
→ かって〈もの〉が存在していた場所、犠牲者が生きていた場所に、さしあたり、すくなくとも一瞬間、何もない空虚な空間ができる。この空間を占有することなく、使いこなせる人間が、いずれはあらわれるだろう。 →以上、ヴァルター・ベンヤミン「破壊的性格」より
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
→いたるところに道が見える以上、破壊的性格じたいは、つねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるかわからないのだ。破壊的性格は、既成のものを瓦礫にかえてしまう。しかし、それは瓦礫そのもののためではない。その瓦礫のなかをぬう道のためなのである。
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
長嶋さんから、僕の読み間違い(および多木さんの文があまりうまくないかとも)との指摘。該当箇所を読んでいるところ(確認ください)。 pic.twitter.com/m3jPbUU7a6
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 18, 2013
そこではたしかに巨大な力の作用のなかに、他者が行き交い、しかも個人は何の保証もない不安を包みこみながら、これほど自由に解放された空間はないからである。そんな空間を内包する建築がないものだろうか?――多木浩二「どこかで見た、見たことのない町」
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 19, 2013
今後、建築に可能性があるとすれば、建築はこうした人びと、つまりわれわれが自らを危険と自由の双方に晒された存在として感じることのできる空間として構成されるようになるだろう。―― 多木浩二、同前
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 19, 2013
言い換えるなら建築はますますヴォイドになっていいのである。そのなかで多数の機能が絡み合い、社会の過程の動的なプログラム(資本主義)の結節点として存在するようになっていくだろう。―― 多木浩二、同前
— おかざき乾じろ (@kenjirookazaki) July 19, 2013
岡﨑乾二郎さんが紹介してくださったベンヤミンの「破壊的性格」(『ベンヤミン著作集1』晶文社)を図書館で借りてきた。実はこの短いエッセイは、『多木浩二と建築』の編集作業中にも一度目を通していた。 http://t.co/PTY7ev9nEU
— 長島明夫 (@richeamateur) July 20, 2013
ベンヤミン「創造的な人間が孤独を求めるのにたいして、破壊的な人間は、いつもひとを周囲に集めずにはいられない。自分のはたらきを見まもってくれる証人たちが必要なのである。」(「破壊的性格」高原宏平訳)
— 長島明夫 (@richeamateur) July 20, 2013
という部分を『多木浩二と建築』の160頁あたりの話題に関連させて引用しようと思ったのだけど、どうもエッセイの全体を読むと、「破壊的性格」というのは単なる批判対象として書かれているわけではないように思えて、「下手に触れるとまずい」という直感が働いたのだった。
— 長島明夫 (@richeamateur) July 20, 2013