木田さんも多木さんと同じく広島・江田島海軍兵学校にいて原爆を見たのだったか。

広島に投下された原爆の目撃者でもある。水泳訓練のため浜辺で服を脱いでいる最中だった。「ピカッと光り、辺り一面が紫色になって10秒か20秒後、爆風に飛ばされそうになった。しばらくして広島の方を見ると真っ白な煙の柱が空に突き刺さっていてね。学校に戻り、校舎の2階から見たら、煙の柱が巨大なキノコ雲になっていました」

太平洋戦争がはじまったのが中学一年の終わり頃でした。その当時は、まわりは軍国少年ばかりでした。私自身も海軍士官になろうと思っていました。やがて江田島海軍兵学校に入ることになります。そして、敗戦の直前──海軍兵学校のある江田島から広島までは四〇キロくらいしかありませんから──原爆の投下を見ました。
───多木浩二『映像の歴史哲学』今福龍太編、みすず書房、2013、pp.5-6

お二方は同じ1928年生まれ。ウィキペディアによれば、海軍兵学校の採用生徒数は、1942年には1000人を超えていたらしい。木田元の同級には小沢昭一栄久庵憲司の名前もある()。
多木浩二と建築』の著作目録に木田さんの名前は出てこないけれど、毎日新聞の記事を読んでも、思想の根本で通じるところはあったのかもしれないと思う。以下、30代の終わり頃の多木さんの文章より。

あまり世代のちがいを信じていない私だが、戦争については、第2次大戦中の年令や環境によるうけとめ方のちがいを信じないわけにはいかない。[…]どんな卑小な体験であろうと、その当時を生きた個人はそれぞれの仕方で戦争を経験したわけで、私にはそれが各人の思想の骨組をきめ現代に対する姿勢をきめているように思える。意識するかどうかは別であるし、戦中派が戦争体験というものに固執することを憎む世代の発言ですら、結局はそれを免れていない。[…]私の場合、15年戦争のあいだに幼年から少年に成長した世代に属している。敗戦もまぢかい20年の4月に中学から軍の学校に進んだがそれもほんの短い期間で終ってしまった。この時期に私が心にいやしがたい傷をうけたとは思えない。実さいにひとりの兵士として戦場に駆りだされたり、すでに不完全ながら戦争の本質と行方を見きわめていた年上の青年たちの不幸とはちがって、私はむしろ戦争という体制に順応し、戦争に甘やかされていたともいいうるのである。[…]私は戦中から戦後への転換をそう衝撃的にうけとめたわけではない。むしろ、戦争もあたえられたものなら、戦後もあたえられたものであり、いつでも気がつくとその現実のなかにいるといった間抜けさ加減であった。私に戦争の意味がうまれてくるのは、かなり時間をへてからであった。それは戦時中にうけた傷ではなく、戦後に、戦争の意味をといなおすことによって自分自身で自分を傷つけたことなのである。[…]つまり、私の戦争体験というのは、実は、戦後における認識のなかにあった。屈折した間接的な体験としてしか存在していないのである。この認識は、私に狂気も現実主義も拒絶するしかないことを教える。
───多木浩二、無題(『東松照明写真集 日本』写研、1967)