北野武アウトレイジ』(2010)をDVDで観た。モダニズムを感じた。すこしまえに日記で「このところ暴力を構成要素にした映画がどんどん受け入れがたくなってきている」と書き、でもジョニー・トー『エグザイル/絆』(2006)はそれなりに楽しめたと書いたけど(5月3日)、『エグザイル/絆』とはまた違ったあり方で、『アウトレイジ』もそれなりに楽しめた(反射的に目を背けたくなるシーンは沢山あったけど)。
例えば終盤、ある暴力団一派が次々と殺されていき、物語とほとんど関係がなかったような愛人まで皆殺しにされるのは、普通に考えればあまりにも凄惨なのだけど、むしろそこまで徹底して機械的に順序よく、かつ多様なやり方で殺されていくことで(ネット上の情報によれば、まず撮りたい暴力シーンを考えてからストーリーを組み立てていったらしい)、物語の現実味が薄れ、映画としての抽象性と運動性が前面に出てくる。しかしそれで暴力表現のためだけの形式主義になってしまうかというとそうでもなく、そのように個々の人間が単なる一要素として扱われるような映画の構造は、この映画(脚本)で描かれる下克上のヤクザの世界の構造とも重なっている。
観客としては、ストーリーの展開上、その皆殺しにされる一派に肩入れするような感情が生まれる。けれどもそれは登場人物の人間性の描写によるものではなく(『エグザイル/絆』はむしろそこを丁寧に描くことで成立していた)、あくまで抽象性と運動性を前提にしている。言ってみれば、権力者や多数派に利用されて捨てられる人間たちには自然と感情移入してしまう、という構造的なレベルから生まれる感情だと思う(映画公開時のキャッチコピーは「全員悪人」だった)。現に激しい暴力描写を提供していることの倫理的な問題は残るとしても、このドライな表現は興味深い。ふと未来派の戦争賛美を思い出した。