多木浩二と建築』の寄稿者の一人である青井哲人さんが特集についてブログで書いてくださっている。

最後の追記は、そこで書かれているとおり、ツイッターで僕の誤解があってご迷惑をかけてしまった。一応ツイッター上で訂正をしたのだけど、その後も最初の誤解を含むツイート(書き込み)のみリツイート(別の人による再投稿)されるようなことがあったので、結局どちらも削除した。下のふたつが最初のツイート、上のふたつが翌日のツイート。

月曜の対談との関連をいうと、実際、八束さんが青井さんの寄稿文に触れる場面もあったし、八束さんの発言は、青井さんがブログで書かれていることとかなり重なっていたと思う。震災以降の建築家の社会的振る舞いや「批評としての建築」の存在意義に対する批判も八束さんは口にされていた(坂本さんは前者の批判には同意し、後者の批判には同意しないという立場だった)。一方、対談では「多木はそういう日本的建築家像の形成にそれなりの責任がある」というような話はなかったけれど、実はこうした多木さんに対する批判的見解は、今回の特集のアンケート回答や『視線とテクスト──多木浩二遺稿集』(青土社、2013)の序文(初出:『現代思想』2011年6月号)で、伊東豊雄さんが匂わせている(自己批判を含みつつ)。
ツイートで触れた「世界は露骨な暴力やら地べたの欲望でつくられているのに、多木の文章はいつもそれを「文化」という窓を通して問おうとする」という青井さんの指摘は、僕も多少感じていたことだった。特集のpp.160-161でほとんど無理矢理、確信犯的にエドワード・サイードと多木さんの類似を示唆してみたけれど、サイードの『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社ライブラリー、1998)から適当な文章を抜き出そうとするときに引っかかったのが、状況に対して直接的であるか否かという両者の違いだった。その差異を棚上げして類似点ばかりを拾うのに若干の後ろめたさがあった。
ただ、困難な状況に直接コミットしたサイードはもちろん素晴らしいのだけど、それと対比させたときの多木さんの態度をどう捉えてよいかは今のところよく分からない。まさに上野俊哉さんが指摘するように、「状況を直接に、無媒介に語る言葉は、かならずしも状況に批評=批判的に介入できない」(特集p.51)ということも十分ありえるような気がする。そしておそらくそういった多木さんの態度を問うときには、その態度がある変遷の結果そうなったものであること、つまり1960年代末から70年前後の『プロヴォーク』や大阪万博批判といった、状況に直接に関わろうとする(ように見える?)活動があったことまで踏まえて考える必要がある。特集の坂本インタヴューでもそのあたりのことは話題にしているけれど(p.181)、少なくとも多木さん自身は「状況」に対して極めて強い問題意識を持っていた人だろうし、その上で「「文化」という窓を通して問おうとする」ことにはなんらかの意図があったのではないかと思う。例えばそれを考えるための一つのヒントは、「芸術、文化こそ生きのびる方法なのだ」(p.150)と書かれる『戦争論』(岩波新書、1999)にあるかもしれない。

そこからひとつの教訓が得られる──権力の言説の罠にはまらないこと。戦争がこれこれの理由で生じたと言う権力の言説にたいして反論するよりも──戦争の現実を徹底的に知ることは必要だが──それを超えて希望を見いだす言説を創造することがいっそう必要なのである。(p.156)
どんなに戦争で廃墟になっても「世界」は残るのである。人間は優れた思想、芸術、それに慎ましい日常生活というもので構成される世界をつくりつづけてきた。戦争は、暴力でそれを破壊するのだ。もし思想、芸術をつくりだす能力や、日常生活を維持していく知恵がなければ人類はとっくに滅亡しているにちがいない。現実主義者と称する人びとは、このような認識をあざわらうかもしれない。しかし、そう思わないわれわれは、現実を知りつくすとともに政治と戦争の関係を断ち切り、「永遠平和」の理念を追い求める。われわれの日常生活、われわれの芸術や思想の営みがどれほど空論に見えたとしても、そこからしか未来の方向に向かうアクチュアルな姿勢は生まれてこないのだ。(pp.191-192)

ツイッターでの誤解もあったので、蛇足だとしても一応書いておくと、上記の引用文と青井さんの指摘とは、もうほとんど関係がない。きっと多木さんは青井さんがブログで書かれたような建築領域での問題意識を否定しないだろうし、青井さんがあのような見取図を提示してくださったのは、『多木浩二と建築』の編集者として望ましいことだった。