atelier nishikata《White Room》を見学。木造2階建ての住宅の倉庫として使われていた地下部分(RC造)の増築。地下といっても既存の家屋は崖状の林に向かって2mほど張り出しており、もとの地下室はそれを支えるような格好で崖に面していたので、全面が地中に埋もれているわけではなかった。とはいえその崖側も採光と通風のための最小限のハイサイドライトがあるだけだったので、増築計画では崖の木々を眺める窓が求められたとのこと。
もとの倉庫の平面は3×5m程度の長方形で、それを上階の張り出しのぶん2mほど崖のほうに広げた結果、約5×5mの正方形平面になったという。床の板もその正方形を知覚させるように対角線と中心とが明示して張られ、内部は名前のとおり真っ白でがらんどうだし、入った印象としては、とてもフォルマリスティックなデザインに思えた。
ただ、幾何学形態というと、現実の様々なコンテクストを無視したものと捉えられがちだけど(たとえば有機的形態と呼ばれるものと比べて)、ここはそういう印象はない。というよりむしろ、幾何学(geometry)の起源が大地(geo)の測量(metry)だったように(よく知らないが)、この正方形の空間も、既存の家屋や庭、崖状の林との関係のなかで(その崖は武蔵野台地の際だという)、人の理性によって新しく境界線が引かれた場所として感じられる。前にも大相撲の国技館についてちょっと書いてみたことがあったけど(2009年9月25日)、おそらくある種の幾何学形態による空間は、その物理的な床・壁・天井の枠組みだけでない、より観念的なレベルでの世界の広がり、そしてその中での自分の位置というものを感じさせるのだろう。
一方、この《White Room》では、内部の壁面の縦方向に目地、横方向に段差があって、言ってみれば正方形の4つの角を打ち消すような操作がされている。これは、正方形というひとつの秩序だけでなく、それ以外の秩序を複合的に場にもたせたということではないだろうか。そもそも既存の地下室の拡張なので、出入口や梁の位置は正方形の秩序に従属していないし、崖に向かう大きな開口は空間に方向性をもたらしている。また、生活のなかで物や家具がランダムに置かれていくこともあるだろう。そうしたとき、単に正方形の秩序だけでは埋もれてしまいかねない幾何学性を、壁の目地や段差による秩序が複合的に維持する方向に働くと言えるのではないだろうか。下の動画は設計者によって作られたもので、『Room with 3 Closets』というタイトルが付されていることからしても、それ自体ひとつの作品として提示されていると思うのだけど、なぜわざわざ未完成の工事中の状態で撮ったのかと考えると、やはりあえてノイズを含ませておくことで、精度を上げていったが故に(映像として)顕在化してしまう決定的な破調を回避するためだったという気がする。

ちなみにatelier nishikataの小野弘人さんと西尾玲子さんは『映画空間400選』(INAX出版)の共著者の方々。小野さんには「壁」というテーマのコラムのほか、チャールズ・チャップリン『巴里の女性』(1923)、エルンスト・ルビッチ『結婚哲学』(1924)、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『イワン雷帝』(1944/46)、小津安二郎『麥秋』(1951)、フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』(1959)、ハワード・ホークス『ハタリ!』(1961)、アッバス・キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』(1994)、西尾さんには小津安二郎『出來ごころ』(1933)、エルンスト・ルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』(1942)、ロベルト・ロッセリーニ『戦火のかなた』(1946)、ヴィットリオ・デ・シーカ『ウンベルトD』(1951)、ジャン・ルノワール『草の上の昼食』(1959)、フランシス・フォード・コッポラ『カンバセーション…盗聴…』(1974)、フランソワ・トリュフォー『終電車』(1980)、ジャン=マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレ『階級関係 - カフカ「アメリカ」より』(1984)の作品紹介文を書いていただいた。