新潮2012.4

柴崎友香「わたしがいなかった街で」(『新潮』2012年4月号)を読んだ。
http://shiba-to.com/shibatonews/?p=675
太平洋戦争やユーゴスラヴィアの内戦のことなどがしばしば言及されたりしていて、1週間くらい前に読んだ多木浩二戦争論』(岩波新書、1999)とテーマの面で妙に符合するのが僕には興味深い。僕が柴崎さんの小説の構造をとりわけ意識するようになったのは、多木さんが『生きられた家──経験と象徴』(岩波現代文庫)で論じた〈空間図式〉という概念について考えることをきっかけにしているはずなので、ここで両者が遭遇したという事実には、単なる偶然という以上に、構造とテーマ(形式と内容)との潜在的な関係を感じずにはいられない(そしてこのような遭遇における偶然/必然という観点は、また「わたしがいなかった街で」という小説内の問題でもあるのだから、事態はより複雑である)。
下記『戦争論』からの引用文で述べられていることは、まさに「わたしがいなかった街で」の主人公が、その生活のなかで思考し続けていることだろう。ふたつの著作は、ひとつの問題に対して理論と実践の役割を分担しているようにさえ思える。

二〇世紀は戦争の連続だった。それらの戦争は、経験していない人間にも、歴史的には認識することができる。歴史認識とは過去を復元することではない。歴史は過ぎ去ったことでも、もうありえないことでもない。たしかにアウシュヴィッツも、ヒロシマも、ナンキンも、われわれが経験したものでもなく、その経験を記憶してもいない。もしわれわれが経験したものしか語れないとすると、歴史認識も歴史哲学もありえない。われわれ自らもまた、完全には認識できない未知の部分を含まざるをえない歴史の現在を生きているとすれば、そうした出来事も現在から捉えなおさねばならない。戦争の現実の経験やその記憶が重要なのではなく、「過去」と呼ばれているものを歴史的な視野で認識することが重要なのだ。それは現在を理解することだからである。(pp.187-188)
第二次大戦後、時間がたつにつれて、「記憶」は薄れている。記憶とは第一義的には経験したことであるが、それは経験しなかった人びとの集合的な空間で歴史化される。その空間に宿るものが、経験しなかった者たちの記憶である。たしかにヒロシマという名前は、次第に風化する。しかし風化された状態について認識することが、おそらく歴史の現在の認識のための出発点である。認識の奥行きが、もしわれわれが現に経験したものに限定されるとしたら、歴史はどんなに薄っぺらなものになるだろうか? われわれは過去を歴史として探究すべきである。記憶の風化とは歴史の忘却である。(p.189)

「わたしがいなかった街で」の主人公(一人称の「わたし」)は、柴崎さん本人と大きく重なるように感じられる。小説の登場人物に作者を重ねて見るような見方はナイーヴで素人的なのかもしれないが、その人物が柴崎さんと同年代の女性であることや、大阪から東京に来て世田谷に住んでいるという、これまでの作品でもたびたび用いられてきたような設定以上に両者の同一性を思わせるのは、彼女が自ら問いを立て考える人だからだ。
想像でしかないけれども、たとえば怒る人や悲しむ人、恋する人を小説で描くとき、作者自身が怒ったり悲しんだり恋をしたりしている必要はない、というよりむしろそうした実際の感情は描写の邪魔にさえなるのではないだろうか。それに比べて登場人物の考えるという行為は、それが切実な問いであればあるほど作者自身も共に考えなければならないように思える。この作品の主人公は僕がこれまで読んできた柴崎さんの作品の人物よりも考える度合いが強いと思うし、考えている問題のスケールも大きい。だから主人公と作者は重ならざるをえないという気がする。
とはいえもちろん主人公と柴崎さんは完全に同一ではない。3月5日の日記で書いたように、その主体は相対化され、様々な物事や時空間の関係のなかで、柴崎さんとは異なる日常を生きている。
言ってみれば『戦争論』での考える主体は当然ながら多木浩二その人だった。しかし「わたしがいなかった街で」での考える主体は、主人公と柴崎さんとが二重になっている。ここに小説という形式に固有の可能性がひとつあるのではないかと思う。
柴崎さんの分身である主人公は考え続けるが、しかしこの小説の中ではなにも得られない(むしろ彼女をとりまく状況は悪くなる)。主人公が考え続けたことのなにがしかの成果を得たように見えるのは、彼女と直接面識がない、遠く離れた場所で別の日常を生きている若い女性である。かすかな繋がりしか持たないはずのふたりが、小説という媒体で超越的に関係づけられる。この事態は、下に引いた『戦争論』終章の最後の一文を、小説において実証しているということではないだろうか。

われわれの日常生活、われわれの芸術や思想の営みがどれほど空論に見えたとしても、そこからしか未来の方向に向かうアクチュアルな姿勢は生まれてこないのだ。(p.192)

考え続けた主人公自身がそのままその対価を得られるという展開は、その主人公が作者の分身であるなら成立させにくい。自作自演のようになって、考えるという行為の切実さが損なわれてしまうように思える。だから考えるという行為の世界に対する可能性を実証するには、その行為のひとまずの成果を主人公以外の存在が引き受ける必要があったのではないか。そしてそうした複数の個が想像的に関係するという展開を嘘くさくなく支えるのが、人々が遍在する柴崎さんの作品世界の構造なのだと思う。ここで内容と形式は不可分であるだろう。
一方、こうして「わたしがいなかった街で」をたまたま多木さんの『戦争論』と同時期に読んだ僕は、その小説での主人公と若い女性との関係に似たものを、多木さんと柴崎さんという世代を隔てた見ず知らずのふたりの間に見いだしている。

戦争論 (岩波新書)

戦争論 (岩波新書)