昼過ぎから実家の近所を散歩。なんとなく古谷さんに影響されたような写真。





散歩はここ数年、帰省したときの大きな楽しみになっているのだけど、最近はその体験の質が変化してきた。以前は散歩するなかで、その時点の空間と、子供の頃にその場所を知覚した記憶の空間とが重なって現れ、その振幅によって、ただ道を歩いているだけで酔っぱらってハイになってくるような感じがあった(そのトリップ感は、とくにグールドのピアノ演奏を聴きながらだといっそう強まるようだった。あえて言えば、クラッシックの懐かしさとグールドの現代性との重なりが空間の二重性と同時に作用していたのかもしれない。僕が子供の頃、母親は家でピアノを教えていた)。ところがこの数年、帰省するたびに散歩を繰り返したことで、徐々に子供の頃の記憶の空間が枯渇し、同じ道を歩いていても現在のリアルな空間の現れが支配的になってしまったようなのだ。もう数年前のトリップ感はかなり薄らいでいる。
それはノスタルジックなある種の色眼鏡が外れたということでもあるだろうけど、色眼鏡は色眼鏡で、あったほうがよい場合もある。しかし、これからしばらく散歩するのを控えたところで、上書きされてしまった記憶の空間がよみがえるとは考えにくい。散歩し始めた頃の興奮を今また味わうには、散歩の範囲を広げてよりレアな場所/記憶にアクセスするか、あるいはこれまで散歩した場所でも夕方から夜にかけて歩いてみるのも有効かもしれない。子供にとって昼間の町と夕闇の町はかなり違って感じられていただろうから、今も暗がりの中には記憶の空間が未踏のまま残っているのではないかという気がする。