昨日、(だからたぶん聴き手がその歌詞の言語を理解できない場合であっても歌詞の重要性はそれほど変わらない)と書いたけど、たとえば映画のことを考えてみると、やっぱり海外の作品を観るのにはそれなりに無視できない障害がある。翻訳の問題もさることながら、単純に考えて、日本人に比べ外国人の表情や仕草からその人の感情その他を読み取ることは難しいのだから(僕の場合)、それらの集合で構成される映画が分かりにくくなるのは当然のように思える(その意味で音楽はもっと抽象的だ)。
そうした受容の難しさは古い時代の作品のほうが顕著で、たとえばルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』(1942)なんかは形式的というか構成的な部分で受け入れやすいのだけど、それ以前の「ドラマ性」の強い作品は、観ていて退屈とは言わないまでも、どこか限定的な体験だという気分がぬぐえない。物語に同じような古めかしさを感じても、たとえば溝口健二の映画だと真に迫ってくるのは、やはり文化的な要因が大きいのではないかと思う。もちろんそういう障害と関係なく「分かる」と思える海外作品も、ロッセリーニロメールやカサヴェテスとか以降、少なからずあるけれど。