プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日新聞社、2000)から。印象深い記述は多くあったけれど、とりあえず今の自分に関係づけて考えやすいところ。

「伝達不可能性」という言葉は一九七〇年代に流行したのだが、私は好きになれなかった。[…]今日流行しているある理論によると、それは私にはつまらない、いらだたしいものに思えるのだが、「伝達不可能性」は人間の生活条件に組み込まれた不可欠の構成要素である。それは生涯の刑罰であり、特に高度産業社会で生きる上ではそうである。私たちは単子(モナド)であり、互いに伝え合うことは不可能である。あるいは不完全な伝達しかできなくて、それは出発点で偽りのものとなり、到達点で誤解される。議論は見かけ倒しで、単なる騒音でしかなく、実存的沈黙を覆い隠す多彩のベールでしかない。ああ、私たちは孤独なのだ、たとえカップルで生きていても(特にその場合は)。私にはこの嘆きは精神的な怠惰に起因すると思えるし、そのこと自体を明かしているとも思える。少なくともある危険な悪循環の中で、それを鼓吹しているのは確かだ。病理学的な無能力の場合以外は、意思の疎通は可能だし、それをすべきである。それは他人や自分の平和に貢献する簡単で有益な方法である。なぜなら沈黙は信号の不在であるが、それ自体があいまいな信号をなしていて、あいまいさは不安や疑念を呼ぶからである。意思疎通の可能性を否定するのは偽りである。それはいつも可能である。意思疎通を拒否するのは罪である。意思疎通については、特にその高度に進化した高貴な形である言語については、私たちは生物学的に、社会的に、あらかじめ使いこなす素質がある。あらゆる人種は言葉をしゃべる。人間ではない種類は、いかなるものも言葉をしゃべらない。(pp.98-99)

自分にとってこの文はかなり重く響いてくる。レーヴィにとっては『溺れるものと救われるもの』という本を書くこと(や彼のそれまでの活動)自体が、この文で示されている信念に裏打ちされたことなのだろう。僕はどちらかというと「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」(フリッパーズ・ギター「全ての言葉はさよなら」→YouTube)という世界観に慣れ親しんできたけれど、レーヴィのような人にそれが「精神的な怠惰」だと言われればまったく否定できない。プライベートでも出版活動の面でも省みるべきところは多いと思う。ただレーヴィは、意思疎通は「いつも可能である」と書いているけれど、それとパーフリ的認識とが対立しない、両立する位置があるような気もする。「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」という言葉自体、そもそも(体育会系的?)全体主義に抗するものでもあると思うし。しかしいずれにせよ上記の言葉は重い。