プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日新聞社、2000)を読んだ。著者は1919年生まれのイタリア人で、1944年4月、ユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、1945年1月に解放された。戦後、自身の体験をもとにした本を何冊か出して、この『溺れるものと救われるもの』(1986)が遺作。出版の翌年に67歳で自殺している。
読んでみて、とても澄んだ文章だという印象を抱いた。たぶん翻訳もよいのだと思う。ブレのない硬質な思考には、その前提に怒りがあるはずだと思うのだけど、決して私怨に流されることなく、世界に対する明確な問題意識に裏打ちされている。丹念に現象を捉えていくさまも、詩的に文章化され、よどみを感じさせない。

この本で私が貢献したいと望んでいるのは、今日でも不明瞭に見えるラーゲルという現象の、いくつかの側面を明らかにすることである。そしてかなり野心的な目標を提起したいと思う。それは差し迫った疑問、私たちの話を読む機会を得たすべての人たちを不安にさせた疑問に答えることである。つまり強制収容所に関する事柄の内で、どれだけのものが死に絶え、もう復活しないのか。かつての奴隷制や決闘の作法のように。そしてどれだけのものが復活したのか、あるいは復活しつつあるのか。この脅威に満ちた世界で、少なくともその脅威を無力化するために、私たちのおのおのは何ができるのか。(pp.14-15)

この本については、多木浩二が『20世紀の精神──書物の伝えるもの』(平凡社新書、2001年2月)で論じ、その後「空間の思考2 日常性と世界性──坂本一成の「House SA」と「Hut T」」(『ユリイカ』2001年9月号)でも触れている(後者の論文は2005年に「建築のロゴス──坂本一成モダニズム」(『進歩とカタストロフィ──モダニズム 夢の百年』青土社、2005)に更新された)。『溺れるものと救われるもの』の邦訳が出版されたのが2000年の7月なので、もしかしたらそのインパクトがすぐに多木さんに現れたということかもしれない。僕はこの多木さんからのつながりで手に取ってみた。
多木さんは『20世紀の精神──書物の伝えるもの』で、この本について次のように書いている。これは少しまえにこの日記で書いた、プロ/アマ(専門性/日常性)ということと重なる部分がある。

 この本が可能であったのは、彼が普通の人だったからである。充分な英知と謙虚さを身につけた普通の人だったからこそ、人間の愚かさを理解できたのである。もし人間が世界に住み着く様相を日常性というなら、プリモ・レーヴィはそこからあらためて世界を眺めようとしていた。
 なぜ私が普通の人にこだわるのか、一言だけ記しておこう。哲学者についてカントが考えていたことを、ハンナ・アーレントが巧みに纏めた言葉を借りれば、哲学者とは普通の人間のあいだで生活するのであって哲学者仲間のあいだで生活する人間ではないし、また快、不快について生活を評価することができるのは哲学者だけではなく、生活を反省したことのある人間ならどんな普通の人にも可能なことである。私がプリモ・レーヴィを「普通の人」というときに念頭においているのはそのことである。
 この小著のなかで、ここまで扱ってきた人びとはすべて天才であった[引用者註:フロイト精神分析入門)、ソシュール(一般言語学講義)、T・S・エリオット(荒地)、カール・シュミット(政治的なものの概念)、ベケットゴドーを待ちながら)]。彼らは驚くべき理論を構成し、あるいは不滅の作品を残した。だが凡庸な人びとの苦悩について理論や創作でなく、なにを洞察できるのだろうか。それを理解できるのは天才や知識人ではない。だからこそここでプリモ・レーヴィによって、「普通の人」の重要さを書こうとしているのである。
───多木浩二『20世紀の精神──書物の伝えるもの』pp.169-170

また、前掲の坂本建築評では、日常性の重要さを指摘するために、最後の部分でレーヴィのこの本が挙げられている。その言及の仕方はやや唐突でぶっきらぼうなのだけど、実際に『溺れるものと救われるもの』を読んでみると、それをひとつの起点に思考の広がりを感じさせる。やはりたとえ建築の文脈であってさえも、「自由」や「日常性」を語るならば、その地平はアウシュヴィッツまでつながらざるをえない、というかその覚悟で言葉を発しなければならないのだろう(最近よく見かける「他者性」という言葉もそこに付け加えられると思う)。あるいはそれは、たとえ建築の文脈であってさえもというより、むしろ建築だからこそのことなのかもしれない。ただ、たとえば精神病理学の本などもそうだと思うけど、ある種の極限状態に関する思考は、それ以外の状態、それこそ「日常」に対して多くの示唆を与えることは確かだとしても、そのときの思考の関係の付け方には十分慎重であるべきだと思う。たとえば坂本一成の建築の特徴のひとつが日常性だとしても、それと対置される非日常的と言われるような建築が、それゆえに、非日常であるアウシュヴィッツとほんのわずかでも近い位置にあるのだろうか、といった疑問。そういったあたりから日常性という言葉の奥行きも見えてくるかもしれない。言ってみれば、レーヴィと同じようにレアリズムで対象を見ること。

 私にはプリモ・レーヴィが化学者であったことと、文学者であったこととが矛盾するとは思わない。物質的な化学反応を観察する人のように、事態を自分の利害にとって都合がよいように考えないことからはじまり、究極的に人間が構成する世界の不透明な謎に迫る。古今の優れた思想や作品はすべてこうしたレアリズム=倫理学をもっているものである。
───多木浩二『20世紀の精神──書物の伝えるもの』p.176