一般に書物を〈話し言葉〉(⇄〈書き言葉〉)で書くことは「わかりやすさ」や「親しみやすさ」を意図した行為だとされる。しかしいくつかの条件によっては、「著者/読者」の関係をことさら「教える人/教わる人」「わかっている人/わかっていない人」として位置づけ、著者をより権威的に、遠くに感じさせることになる気がする。とりわけ著者自身が完全に物にしているわけではないチャレンジングな内容の場合、未踏の領域を手探りで書き進んでいく行為と、〈話し言葉〉を選択することで強いられる「わかっている人」としての振る舞いが分裂しやすい。読者が文章と向き合うための拠りどころが宙吊りにされ、やさしいはずの〈話し言葉〉がむしろ難解になる。
〈書き言葉〉と〈話し言葉〉の大きな違いは、〈話し言葉〉はその言葉を向ける相手が本質的に限定されている(言葉の発信者と受信者が特定の関係を持っている)点にあるのではないだろうか。そうであれば、〈話し言葉〉のほうが敷居が低く誰にでも開放的だということはなく、むしろ一般にフォーマルとされる〈書き言葉〉よりも、〈話し言葉〉のほうが閉鎖的と言える。
学校を出て最初に入った雑誌の編集部で、「〇〇さんは書いてもらうと難しくなるからインタビュー形式で」みたいな話がよくあった。ある種の媒体にとってそれは確かに有効で、一時期『新建築』誌で多木浩二の評論がインタビュー形式でいくつか掲載されたのも、難しい(けれども有意義な)ものをわかりやすく載せたいという編集意図があったらしい。しかしそれは〈話し言葉〉で「書かれた」のではなく、あくまで〈話し言葉〉で「話された」ものが文章化されたのである。要するに〈話し言葉〉に「わかりやすさ」があるとすれば、それは文字を介さず、口で語られ耳で聞かれるレベルで言葉が組み立てられた場合においてであり、そのレベル以上で文章を書こうとすれば、やはり基本的には〈書き言葉〉のほうがわかりやすくなりやすいのだと思う。
〈話し言葉〉で書かれたものを声に出して読んでみたとき、それを聞く人が無理なく内容を把握できるかどうか。それが〈話し言葉〉で書くか否かの一つの基準になるかもしれない。もちろんそうした常識的な基準がありえるからこそ、それを逆手にとった〈話し言葉〉ならではの様々な文学的表現も成り立ちうるのだろう。