下記リンク先、2018すばるクリティーク賞の落選作だという。約22,000字。

受賞作の丹下健三論について読んで思ったことをブログに書いたけれど(1月11日1月12日)、この落選作はそれと印象が対照的で、むしろ僕がブログで問題視したようなことがテーマに据えられた批評論とさえ読める。「芸術の経験の内にありつつ、自分の足どころが不確かなままに、そのことを誤魔化すことなく、作品と対峙する行為こそが批評なのだ」という認識は、例えば「自分をさらけ出さない俳優は殺す覚悟でいる」()と語るカサヴェテスの認識とも通じ、その意味で本論はカサヴェテス作品の批評であるとともにカサヴェテス作品のような批評であると言えるかもしれない。
ただ、映画史的な知識と実感に裏打ちされた文に冒頭から強く引き込まれて読み進めつつも、終盤、特にカントの名前が出てくるあたりから、論にやや距離を感じてしまった。「論理的に分析をし実証する言葉を積み上げる行為が、どこまでも作品から離れるばかりだという思い」には(カサヴェテスの作品に関してのみならず)大いに共感するけれど、作品の具体的な部分から離れて存在の全体を捉えようとするあまり、むしろ作品の核心まで手が届かなくなってしまったような印象を受ける(「時代」という概念で作品を外的に位置づけようとすると、そうなりがちなのかもしれない。本文中のキルケゴールからの引用文「世界は、進歩もしなければ、退歩もしない。それは根本的に同一のままである」が示唆的に思える。古代も中世も近代も同じだという直感)。こちらとしてはそれでもなおカサヴェテスの作品の具体的なところに迫ってほしい。例えば前半で丁寧に記述された『こわれゆく女』の時間をめぐる経験は、終盤列挙された『アメリカの影』『フェイシズ』『ラヴ・ストリームス』での経験と本当に同等になるのかという疑問が湧いてくる。あらためてカサヴェテスの映画を観なければいけない。
ふだん文芸批評というものを読まない僕が今回すばるクリティーク賞のために書かれた批評をふたつ読んだのは、たまたまそれらが丹下健三とジョン・カサヴェテスという僕にも馴染みがある作家を対象にしていたからだった。僕が文芸批評を読まないのはそもそもその元になる文芸をほとんど読まないからであって、やはり対象となる作品を知っていると批評もよく読めるし、知らないとよく読めない。そう考えると(文芸誌が主催する)すばるクリティーク賞は批評のジャンルを文芸以外にも開放しているから、限られた審査員で責任ある審査をするのは大変だろうなと思う。審査員の好みによって審査結果が左右されるのは当然としても、審査員の知識によって審査結果が左右されては応募者は浮かばれない。それともある種の批評というものは、たとえそれが対象とする作品や事象が一般に知られていなくても、その批評の文自体として自律しうるものなのだろうか。今回のカサヴェテス論を読むとあらためてジョン・カサヴェテスの映画を確認しなければいけない気になる一方、丹下論を読んでもあらためて丹下健三の建築を確認しなければいけない気にはならない。そのことは批評の自律性の証明になるだろうか。