たまたま手に取った本に載っていた言葉。最近この日記で書いていたことと通じるかもしれない。

永遠性の根底にあるもの
 おおよそ偉大な思想家は、二つの側面をもっている。彼らはすべて、その思想のうちに「永遠なもの」をもっている。「永遠なもの」は時代を超越し、何千年をへだてて若々しい生命を感じさせる。「永遠なもの」は、常に「現代的なもの」である。
 しかし他面、すべて偉大な思想家は、彼自身が生きた時代を徹底的に生きぬいた人である。何人も時代の子たるをまぬがれることはできない。偉大な思想家といえども、その時代の子たることをまぬがれない。いやかえって、偉大な思想家なるがゆえにこそ、彼らはその時代の子である。偉大な思想家は、彼が生きた時代を代表し、象徴する。このように、偉大な思想家は、「永遠的」であるとともに「時代的」であるという二面をかねそなえている。
 しかもこの二面は、彼らの思想において、併存するのでも、混在するのでも、対立するものでもない。彼らの思想の、この部分は永遠的でこの部分は時代的であると、分かつことができない。分かたれたものは、永遠的でもなく時代的でもなくなってしまう。それはなぜか。彼らの思想における永遠的なものは、まさしく時代的なものに即してあらわれるからである。彼らは時代を逃避して永遠を追いもとめたのではなくて、彼らの生きた時代(彼らにとっての現代)を徹底的に生きぬくことによって、永遠性をかちえたのである。それゆえ、ある思想家について、彼の永遠的なものを見いだすためには、彼がいかなる時代に生き、いかなる現代を生きぬいたかを深く知る必要がある。

後半の「分かつことができない」というあたりにとりわけ興味を惹かれる。日記で書いたことと通じるというのは、具体的には下記のふたつのこと。

  • 「坂本先生の作品歴には、各時代に対応した明快な変遷としてのストーリーが見いだせるとともに、それぞれの作品が無時間的に存在しているかのような普遍性・共通性を持っている」(10月17日
  • 「何かが何からしくあることが、そのまま普遍性に通じうる」(11月5日

ただし、前者はともかく、後者のほうはどんな凡人でも普遍性に通じうるという意味合いが強かったので(これは今年読んだ柳宗悦の『美の法門』の主張でもあった)、「偉大な思想家」を強調している引用文とは一緒くたにできないかもしれない。また前者のほうも、そこで想定していたのは坂本先生個人の作品歴のなかでの「時代」だから、引用文における「時代」とはスケールが異なる。
そういえば吉田健一も似たようなことを書いていたのを思いだした。

ヒュウムと違つてモツァルトが音樂史上に占めてゐる位置は今日では先づ動かせないものと見られ、その音樂は時と場所を越えてといふ風に考へられてゐて、それはそれなりに少しも間違つてゐないが、その爲にモツァルトを十八世紀から取り去ることは許されず、十八世紀のヨオロツパといふものを頭に浮べればそこにモツァルトがゐる。これは當然であつて、一人の人間の仕事がその時代を離れては意味をなさなければそれがもともと餘り意味がないものであることが明かであるとともに、それが優れてゐればゐる程それはその時代に密接に繋り、その時代が遠い過去になつてもその餘香のやうなものがその仕事から漂つて來る。

  • 吉田健一『ヨオロツパの世紀末』新潮社、1970年、p.58