6月30日の深夜に、西沢大良さんが集団的自衛権に関してツイッターで発言されていた。それが建築界隈にとどまらず大きく広まっている。と同時にそれなりの数の批判を受けている(いずれも下記リンク先参照。ページ下部にコメント欄がある)。
- 西沢大良さん;集団的自衛権で貧困層が戦地に http://togetter.com/li/687487
- 米国で行われている経済徴兵制とは http://togetter.com/li/687532
事実誤認を指摘することには意義があると思う。ただ、今回の西沢さんの例に限らず、ツイッター(インターネット)の短文で他人を批判するような言葉は往々にして相手を揶揄する雰囲気や自身の優越感を漂わせていて、そのことが僕にはその批判自体を疑わしく思わせる(僕がここで想定しているのは、いわゆるネット右翼とは一線を画す、もうすこし知的そうな人たちの行為)。
西沢さんが言っていることは陰謀論だと指摘するツイートがある。おそらくそういうツイートをする人にとって、それは批判や警告のつもりなのだろうけど、陰謀という言葉の意味が「こっそり企てる悪い計画」(三省堂 Web Dictionary)であるなら、そんな指摘を受けるまでもなく、もちろん西沢さんが言っていることは陰謀論に違いない。むしろそれをわざわざ陰謀論だと指摘する人は、政府の公式発表を言葉通りに受けとめて、その裏に「こっそり企てる悪い計画」などないと考えているのだろうか*1。こういう指摘を昔の人なら「毒にも薬にもならない」と言ったのかもしれないが、現代のインターネット環境においては積もり積もって毒性を持つような気がする。
西沢さんが、多くの人々にとって正当でよりよい社会を求めて発言/行動していることは疑いえないと思う。もちろん、ある人間がよかれと思ってしたことが結果的に裏目に出てしまうことは十分に起こりうることだろう。しかし今回の批判者たちにとって、西沢さんの発言を放ったらかしにしておくことのデメリットとは一体どんなことだったのだろうか。僕はそのあたりの意図の不明瞭さに、「木を見て森を見ず」あるいは「パブロフの犬」という印象を持ってしまう。もしも批判者が「多くの人々にとって正当でよりよい社会」という目的を西沢さんと共有していたなら、批判をするにしてもその態度や方法はもっと違ったものになっていたように思うし、あるいはプラグマティックに考えて(あえて最大限に悪い言い方をすれば)西沢さんを「泳がせておく」という選択も、目的に近づくためには有効であると判断できるかもしれない。西沢さんの発言に対する批判の多くには、そうした目的意識に根ざした思考のリアリティが感じられない。
自分(他人)がどういう振る舞いをするかではなく、自分(他人)の振る舞いが世の中にどういう効果をもたらすかを意識すること。そのような意味での客観的・俯瞰的な思考は、個々の事象をまなざしながら同時にそれらを調整して全体の秩序を設計するという、建築的思考にも通じるのではないだろうか。僕が西沢さんの発言を信頼できるのは、その発言がそういった思考に貫かれているからであると思う。
若い人々へ:
『光の中を歩め』って言ったのはトルストイ。
でもトルストイは素直な人だから、光の中を歩くには1つだけ条件があるってことを、言わなかった。本来は、次の条件を付けないと意味がない。
『光の中を歩め、光のあるうちに』
集団的自衛権の阻止、まだ光はあるからな。
— 西沢大良 (@tairanishizawa) 2014, 7月 6
→若い皆さん、自分の意見を「行動」に移して。
自分の意見を「政治家・役人・企業人・法曹人」に伝えることを「行動」と言う。
手段は「署名・デモ・議員FAX・陳情・ロビーイング・選挙や投票」等々。
仲間ウチで床屋政談してても意味ないです。
光のあるうちに、光の中を歩いて下さい。
— 西沢大良 (@tairanishizawa) 2014, 7月 6