星よりひそかに

柴崎友香『星よりひそかに』(幻冬舎、2014)を読んだ。『パピルス』の2009年5月号から2013年10月号にかけて連載された6編の連作短編+書き下ろし1編。前にも引用した文だけど(2013年2月3日)、柴崎さんの短編集『週末カミング』(角川書店、2012)のあとがきに下のようなことが書かれていて、

いちばん時間の経っている「蛙王子とハリウッド」から、数か月前に書いた「ここからは遠い場所」まで、「週末」という共通点以外は、つながりを設定していたわけではないのですが、通して読むと、ある小説のすみっこが、別の小説の中に通じているように感じるところを、あちこちに見つけました。
わたしの小説はどれもそうなのですが、小説を書いたり読んだりする現実のわたしたちと同じ街にいる誰かの話と思って書いているので、ある小説に出てきた人物が別の小説の誰かと知り合うということも、現実と同じように起こるんだろうな、と思います。「世間って狭いよね」みたいな感じで。

今回の『星よりひそかに』は、まさにそうした別の小説の登場人物どうしを出会わせ(すれ違わせ)ながら、部分(各短編)と全体(短編集)が構成されている。逆から言うと、こちらも前にブログ(2012年7月5日)で書いた『虹色と幸運』(筑摩書房、2011)の、3人の友人関係の距離感を引き延ばし、ほとんど縁のない他人どうしにまで希薄にしたという感じ。しかしだからこそむしろその微かな縁が作品のエッセンスとして浮かび上がってくるわけで、それらの人物たちの関係を知るのは各短編が集合したこの1冊の本を読み通す読者しかいない、その視点の超越性も際立ってくる。
たとえば2編目で下のようにだけさりげなく触れられている女子高生が、

携帯電話を開くと、友だちからメールが来ています。
〈おはよー! かなみん! 今電車で目の前に座ってる女子高生が「宿坊ガイド」凝視してるんだけど! しかも鞄に「葉隠入門」入ってるんだけど! どんだけ悟りたいんだよ! なにがあったんだよ!〉
えり子のメールには、朝でも夜でも「!」がたくさんついています。☆やハートや絵文字も多い。

3編目と4編目では主人公として描かれるというような微妙な関係づけが、いろんなやり方と強弱で、全編にわたって複雑に行われている。読者はしばらくこの本を読み進めるとそれぞれの短編の世界が重なり合っていることに気づき、立体的な空間の広がりを感じる。さらにその綿密に組み立てられた空間は本のなかで完結しない。新たに書き下ろされた1編が元の連載の4作目と5作目のあいだに挿入されることで、全体のあり方と意味が変化し、物語は短編集の外部に開かれる(要するに、書き下ろしの1編にはその短編内では説明しつくされない謎の多い人物が登場し、「あ、今度のこの人はどういう素性の人なんだろう」と、読者は後ろのページで説明されるのを当然のごとく期待しながら読み進めるのだけど、結局その後にその人が触れらることはなく、それによって宙吊りにされた感覚は作品世界を相対化する)。映画監督のホン・サンスが自身の創作をめぐって「私には、セザンヌの立ち位置、具象性と抽象性のバランスがぴったりくるんです」(2013年5月31日)と言う、その言い方に倣えば(ホン・サンスと柴崎さんの作品は少なくともその具象性と抽象性のバランスにおいて通じると思う)、この書き下ろしの1編の挿入は、セザンヌの絵画における塗り残しに対応すると言えそうな気がする。形式的な完結を避けることでダイナミズムを生み、作品世界を現実に開放する。
柴崎さんの他の作品のいくつかと同様、この『星よりひそかに』も、シーンの移り変わりや異なる時空間をつなぐ編集の仕方に、映画的な雰囲気を感じた。関係がない(あるいは現実には関係が見えない)人どうしを客観的な視点から関係づけるためには、たとえば16世紀のモンテーニュ以降のエセーという形式(書き手自身を主体とした形式)よりも、近代的な小説という形式(超越的な視点をもつ形式)のほうが向いているのだろう。前に読んだ『モラリスト』(竹田篤司、中公新書、1978)という本では、「安定したアンシャン・レジームの崩壊に伴って、人間はひとりひとりまったく別であり、そもそも人間に本質など存在し得るかどうかという新しい疑問が人びとの心を捉えたとき、モラリスト[モンテーニュたち]はその席を小説家に譲らなければならない」(p.221)と書いてあった(2月8日)。しかしそれをもっと進めて言えば、そうした小説よりもさらに後の時代に生まれた映像というメディアのほうが、おそらく「関係がない人どうしを関係づける」ことにはより適しているように思う。たとえば『建築と日常』No.0()に掲載した下の写真に写っている人たち(別々の方向に歩く人、屋内のベンチに座って本を読む人、ガラスに映るカフェの人々)はそれぞれ赤の他人だとしても、こうして1枚の写真のなかに収まると、なんらかのレベルにおいては関係しているはずだと感じられてくる(それはフィクショナルな感覚だということになるのかもしれないが)。「この感じ」を文章で表現しようとすると、わりと大変なのではないだろうか。

映像は対象を外側から捉える。そして事物間の関係を客観的に捉える。柴崎さんの作品はこうした映像的な質を持っている(僕が知っているなかでは、パリを舞台にしたエリック・ロメールのオムニバス映画『パリのランデブー』(1995)に、『星よりひそかに』とよく似た印象を受ける。『映画空間400選』()ではその映画を紹介して、「物語上は接点のない三話が同じ都市空間における出来事として立ち現れてくる」と書いていた)。とはいえもちろん柴崎さんの作品にも、映像的な外からの思考だけでなく、小説的な内からの思考があるだろう(そう考えてみるとロメールの映画は逆に小説的だと言えるのかもしれない。実際に小説も書いているし)。柴崎さんの作品の魅力は、そのような外からの思考と内からの思考の両方が不可分であることを前提にしているのだと思う。たとえば下のリンク先は、CREA WEBでの『星よりひそかに』に関する柴崎さんへのインタヴュー記事だけど、上で問題にしている全体構成のあり方や映像的な質とはまるで別のことが注目されている。しかしそこで語られているようなことも、きっとその作品における独特な構成と別個にあるのではなくて、柴崎さんの思想なりなんなりに根ざして、ある必然性をもって全一的に存在しているのだと思う。

ところで柴崎さんの新作「春の庭」(『文學界』6月号)が(僕はまだ読んでいないけれど)芥川賞の候補になっている。選考会は7月17日。柴崎さんにはぜひ選ばれていただいて、『窓の観察』の在庫が一掃されるくらいのビッグウェーブを体験してみたい。うれしい悲鳴を上げてみたい。柴崎さんの異色の短編「見えない」が読めるのは本誌別冊『窓の観察』だけです。