例の講義の第8回(+第9回)が終了。今日は2コマ連続で、ゲストによるレクチャーと課題の講評会だった。その後、JIA杉並土曜学校第1回「青木淳さんと見る、大宮前体育館」に参加(土曜ではないのに土曜学校なのが気になる)。しかし講義の時間が延びてしまったため大幅に遅刻し、おそらく30分以上あった青木さんによる説明を聴くことができなかった。ただ、その説明の後に3グループに分かれて、1時間以上かけて建物内外を観て回り、そこで設計スタッフの方から具体的な各部分に関して丁寧な説明を聴くことができた。
もしかしたら青木さんの話(全体の話)を聴けずにスタッフの方の話(部分の話)を聴いたというこの体験が、見学した建築の捉えどころのない印象を増幅させているかもしれない。建物は『新建築』の7月号で青木さんの論文とともに発表されるようなので、それを見てあらためて整理してみたい。以下とりあえずのメモ。
捉えどころがないと書いたけど、その捉えどころのなさはおそらく設計者が意図したはずでもあり、それも踏まえて《大宮前体育館》はとてもよい建築だと思った。とりわけ外部空間および周囲の低層の住宅地との関係がすばらしい。とはいえこの計画の大きな特徴は、体育施設のヴォリュームを地下に埋めることで外部に良好な環境を形成するという点にあるのだから、外部と内部は切り離しては考えられない。その意味で、内部(地下)の空間も決してそちらに追いやられたという感じはしなかった。


全体のサイン計画は菊地敦己氏。4本の比較的狭い道(うち3本は一方通行)に囲まれた(=8方向からの道が集まる)不定型の敷地は、小学校の跡地だという。もともとあった4本の大きな銀杏の木を残しながら、地下では繋がっている建物のヴォリュームを地上では大小ふたつに分けて、敷地中央を歩いて抜けられるような配置がしてある(→鳥瞰図)。


上の写真は、大きいほうの棟の1階回廊から撮影したもの。右側がメインの大体育室のヴォリューム(バスケットボールコート2面分)。奥には別棟の地下1階にあるプールが見える。直方体の大体育室は、地下2階から地上1階までコンクリートの壁で覆われていて、その四方を3層分の吹き抜けが囲み、さらに外側を回廊が一周するという、明快な入れ子構造になっている。コンクリートの壁は外側のみ微妙にうねっていて、なおかつ打ち放しコンクリートをパテで均しただけのまだらな仕上げがされている。スタッフの方の説明では、これは直方体の巨大なヴォリュームの印象を和らげるための措置だという。しかしたとえばこのあたりのデザインが、上で書いた「捉えどころがない」という印象を生んでいるように思える。いくら地下といっても、大体育室は内外ともにもっと軽く見せることはできただろうし(とくに内部は閉鎖性が強く、スケールや表面仕上げも土木建造物のような雰囲気。コンペ案ではもっと外部と連続していた)、わざわざ入れ子構造で直方体のヴォリュームを現しておきながら、その形態や構成の強さを打ち消すための操作がされている(3層分の吹き抜けが大体育室を囲んでいることで、大体育室の外側は地下2階でも開放感があって、あたかも地上/地下の境界が、この大体育室の壁体のラインにまで移動してきたような感じがある。そのことと「追いやられた感じがしない」ことと、関係があるのかどうか)。
説明ではしばしば「かたちや構成の意味が強くならないようにする」とか、「ありふれた材料を普通とは異なる方法で新鮮に用いる」とかいった言い方がされていた。こういう言い方は、僕には坂本先生の発言として馴染みがある。実際、青木事務所の若いスタッフのお二方は『建築と日常』で企画した《代田の町家》の見学会()に来てくれていたようだから、(青木さんはさておき)少なくとも僕が聴いた言葉のレベルでは直接的な影響があるのかもしれない。
ただ、そのような記号的操作の結果としての《大宮前体育館》と坂本先生の建築とは、はっきりと印象が異なる。おそらく坂本先生におけるそうした「否定の身振り」(多木浩二)は、僕も「《代田の町家》の危機」(→PDF)で指摘したように、その個々の身振りが単独で存在しているのではなく、意識的であれ無意識的であれ、ある一つの世界を構成するための手段としてある。一方で《大宮前体育館》でのそれは、個々の単独性が強い。かつ単位面積当たりの数が多い。その結果、坂本先生の建築の部分(必ずしも物理的なものだけではない様々な要素)が緊密な世界像をつくるのに対して、《大宮前体育館》の部分は世界像を拡散させる(「拡散的な世界像をつくる」というよりも「世界像を拡散させる」という気がする)。それは青木さんが前々から言われている「遊園地」よりも「原っぱ」のほうがいいということなのかどうか。また坂本先生が言う、下のような意識と関係があるのかどうか。

ある方向に行きすぎた強いイデオロギーが色んなことを硬直させる、そんな思いが僕のなかにある気がするんです。だから今も常にやりすぎないようにする。全体が部分の有機的な関係のなかでできていると同時に、その部分をそれぞれ独立させたい。設計をしていて、一部を変えると全体をやり直さなければならないという状態ではなくて、これをこちらに動かしたって全体には影響がない、そういうふうにしたいという気持ちがある。でもそれが実現できていないのでしょうね。
───坂本一成インタヴュー「坂本一成による多木浩二──創作と批評の共振」『多木浩二と建築』長島明夫、2013、p.145

しかし、《大宮前体育館》の数々の手が込んだレトリカルな操作は、坂本先生的な認識からすると、「やりすぎている」というものであるような気もする。しかしその「やりすぎ」が、むしろ部分を全体からの独立に向かわせる手立てなのかどうか。

  • 大体育室の外側の壁面の扱いは、建築を見慣れた見学者にとっては、ただ単にコンクリートの平滑な面があるよりも、存在感や作為性が強く感じられる。日常的に施設を利用する人にとっては、他の建物とは異なる自分たちの建物として、積極的な意味を付着させるものかもしれない。
  • 日常的に施設を利用する人にとっては、どんなに強い幾何学的な形態や構成も、いずれ無意識に沈んでしまう(そしてその状態において、強い幾何学的な形態や構成はどんな効果をもたらすのか)。
  • イスラム教のメッカのカーバ神殿(例の講義で勉強した)を考えたりすると、単純で強い幾何学形態のほうが、偶像的な意味の付着(と劣化)を拒否するかもしれない。
  • たとえば近所の人が夜、寝床について目を閉じたとき、建築の幾何学的な形態や構成の強さによって「あの方向にあの空間があるのだな」と想像できることは悪いことではない(《大宮前体育館》の異様なコンクリートの直方体にはそれがある気がする)。


外部空間としては、(配布された図面の「運動広場」という表記は適当ではないような気がするけど)草が生えた屋上もすごくよかった。