何日か前、2020年のオリンピックの開催地が東京に決まった。それに対する様々な論点や賛否があるようだけど、少なくとも建築や建築業界との関連において迂闊なことを言わないために、1970年の大阪万博をめぐる当時の言説を把握しておくことは有効な気がする。多木さんにも万博批判の文章がいくつかあるわけだけど(もちろんスポーツやオリンピックについての論考もある。たとえば「オリンピックの憂鬱」『朝日新聞』2004年8月5日夕刊)、僕自身このあたりのテキストはしっかりと読んでいない。とりあえず『多木浩二と建築』()の作業とは直接的には関わらなかったし、また、ざっと目を通したかぎりで、今ひとつ時代の空気を共有できない感じもあった。以下ほぼ引用。
多木浩二による主な万博批判

  • 「EXPOSE・1968 なにかいってくれ、いまさがす批評」『デザイン批評』6号、1968.07
  • 「覚え書・1──知の頽廃」『プロヴォーク──思想のための挑発的資料』1号、1968.11
  • 「万博反対論──デザインにおける人間回復をめざす」『展望』1969.01
  • 「危機を芸術家に強制──参加と引きかえに支配に奉仕」『日本読書新聞』1969.01.27
  • 「芸術の不可能性──芸術の自律性を問う人のために」『日本読書新聞』1969.03.24
  • 座談(粟津潔針生一郎・宮内嘉久)「参加者の論理と批判者の論理」『われわれにとって万博とはなにか』針生一郎編、田畑書店、1969.05
  • 座談(安部久・小野雄一・針生一郎)「万国博批判──七〇年闘争の課題」『新日本文学』1969.06
  • 「近代の終末」『季刊KEN』1号、1970.07
  • 「万博は縁日か?」『SD』1970.08

私は万博と安保反対とが両立するような思想を思想としては信じない。変身の術を手にいれた芸術家たちが、虚も実もないことを理由に、また不動の視点など消滅してしまったということを理由に、イデオロギーの死を理由に、虚構の演出にすぎない万博にかかわりつつ、反体制のゲリラであるなどというのはあまりいただけることではない。これが両立することをデザインの宿命だとは、まさか、だれもいうまい。
───多木浩二「EXPOSE・1968 なにかいってくれ、いまさがす批評」『デザイン批評』6号、1968.07

万博は、2つの意味を今日の日本においてもっている。
第一にそれはブルジョワイデオロギーによる文化の再編と強化である。それが万博をやろうとした最初の動機であるし、第二にそれを70年に開催しようとしたことは、安保闘争を考えに入れた戦略的な意味ももっていた。第一の点は第二と深くかかわりあっていて、全体として強力な資本の攻勢をかたちづくっている。それはまずあらゆる文化エリートを体制の側に再編しつくそうとしている。イデオローグは、万博の担い手としての文化エリートを位置づけて、万博の文明史的な意義としているが、それは結局、独占資本によって組織づけられた社会の構造を前提としている。体制側のこの作業は確実にすすみ、丹下健三を頂点とする大谷幸夫、磯崎新などを含む建築家のエリートたち、杉浦康平粟津潔福田繁雄などをはじめとするデザイナーたち、松本俊夫勅使河原宏などの映画作家たち、さらに一方でベ平連などで活躍をする小松左京など、一切が万博へと組織されてしまった。のこっているのは、建築家にしろ、デザイナーにしろダメな部分であるという見方をする人もいる。
実はこういうなかで、もし万博を見るだけの全体知がかれらの生のかなたにあれば、万博がかれらにさしだしている問題の根深さに気づく筈である。たとえばデザインがもしコミュニケーションの回復であるなら、そして、かれらのなかに歴史的にも理論的にも(また現実的にも)正確な人民(世界のなかにある人間として)のイメージがあるなら万博によるコミュニケーションのネットワークが人間を文化へ向って組織する、その文化とかコミュニケーションとかいうものへの根源的な否認があっていい筈である。テクノロジーにしてもそうだ。私は建築家やデザイナーはいま、ほとんど永久に復権する機会を喪ったと考える。それはかれらの内部において喪われたのであり、それだけに回復は不能である。
「要するにお祭ですよ」というのを、私はEXPO'70に参加しているデザイナーたちから何度もきいた。それは、大したことではないのだから、そう角をたてるなという意味でもあり、そこで大へんな金が使えるから、「やりたいこと」を部分的にやればいいのだという意味でもある。
私は、ここに文化というものに対するかれらの認識を見るわけであり、かれらが「やりたい」ことというのは、この文化と根本的には矛盾しない──というよりニュートラルな──技術だけであり、それ故にもはや同質なのであるといってよい。丹下健三のように戦後かなり早い時期から、資本主義イデオロギーを明確にうちだし、それによって空間をさまざまにつくってきたブルジョワ社会の成功者がこれを主導するのは当然である。EXPO'70に文化の第3のフロンティアをみるというイデオローグ加藤秀俊のような人はともかく、粟津潔磯崎新などのもっている文化の概念がこの程度であるというのはやり切れない。かれらがEXPOSE'68と銘うって行ったシンポジウムの批判に、私は、万博に決してあらわれないものが、人間の根源ともっともかかわり深く、EXPOSE'68の前衛たちがやってみせた方法の虚しさを指摘した。それは、文化というものに対する思想の欠落を、つまりは救いがたい知の頽廃をみたからであった。
───多木浩二「覚え書・1──知の頽廃」『プロヴォーク──思想のための挑発的資料』1号、1968.11

たとえば万博の建築で何がいちばんすぐれているかという質問をうけたとき、私は少しちゅうちょするが、丹下健三の大屋根だと答えないわけにはいかないのはなぜか。残念ながら、私はこの途方もなく大きな屋根に感動したわけでもないし、そこに未来の希望を見出したりするのでもない。[…]このアイディアは決して新しくなく、近代建築のオーソドキシーであるといいうるように思う。もちろん、それと磯崎新の自由なアイディアにみちたソフトな空間とを組合せたことは、ある意味では成功すべきアイディアであるようにも思えるが、丹下健三のデザインは人間の方に向っているというよりは、外なるもの[2字傍点]と技術の空間にむかったものだということができるとすれば、私が丹下の大屋根がもっともよいといったのも、この外なる空間のなかでのスケール感の確かさである。それは依然としてモニュメンタルな造型を出ているものではあるまいが、この雑然とした会場のなかでは、建築を創造する衝動と方法の真実さを(それがどのように古くても)感じとらないわけにはいかない、という意味においてである。つまり逆にいえば、他の建築物がそれほどつまらないということであるし、いかにも未来を暗示させようとしても、その底が割れていることを示している。
[…]一方、丹下健三のごとく適確な近代のオーソドキシーは、いかにも、表現としての真正さをそなえているように見えるのである。
ひるがえっていえば、このいかにも確からしく[9字傍点]見えるものこそ、われわれが否定するべきものではないか。そこから先にまだ何もないとしても。
───多木浩二「近代の終末」『季刊KEN』1号、1970.07

この抜き出したところの内容はよくわかる。多木さんが問題にしている「知の頽廃」(知の断片化)や「文化というものに対する思想の欠落」は、『建築と日常』風にいえば、日常からの乖離ということになるだろう。
けれども当時と今となにが異なるのだろうか。2010年の上海万博のとき、日本館のデザインがひどいという話がネット上にあり、「なぜ建築家に声をかけないのか」と当の建築家が不満を漏らしていたのを見て、開催や参加の是非が問われた大阪万博の頃とは隔世の感を抱いた。万博を批判する多木さんの言葉は苛烈だけれど、2000年、『生きられた家──経験と象徴』の新装版(青土社)に付したあとがきの一節のほうが僕には重く感じられる。

いつの間にか西暦二千年、つまり二〇世紀の最後の年にまで来てしまった。この本を書いたどの局面でも、社会や都市がこんなにボロボロになり、こんなにカタストロフィックな世界が出現してくるとは予想していなかった。人間の内面も壊れている。われわれは、このカタストロフィもまた生きねばならない。むしろかつてより一層、根本的な認識の課題を与えられたような気がする。

もし多木さんが生きていたら震災についてなんというか聞いてみたい、という発言をたびたび目や耳にする。しかし僕はそこにはあまり興味がない。そのことは生前の多木さんの文章を読んでいればなんとなく想像できる気がするし、またそうして自分で想像することが重要だと思うし、実際、多木さんがなにか具体的な問題解決策を示してくれるわけでもないだろう。
僕としてはむしろ、太平洋戦争や戦後、60年安保や政治の季節を体験してきた多木さんが、2000年の時点で「こんなにボロボロ」と捉えていたような社会に対する認識の詳細を知りたい。そちらのほうが自分の人生に関係すると思う。