昨日のイベントにお越しいただいた難波和彦さん、古谷利裕さん、岡啓輔さんがそれぞれイベント(建物)について書いてくださっている。

対談は今後動画で公開する予定もあるし(それほどカットすることにはならなさそう)、難波さんの見解はひとまず措くとして(八束さん坂本さんそれぞれの別のトークイベントと合わせて捉えられているようでもあるし)、《代田の町家》に関する記述には正直なところ違和感があった。僭越ながら、僕には「微細な差異を読み取れる建築家達に向けられたメッセージ」とは思えない。少なくとも坂本さんの意識として「建築家達に向けられたメッセージ」でないことは『多木浩二と建築』のインタヴュー(p.180)でも確認しているし、「《代田の町家》の危機」()で書いたように、個々の細かな操作は(それなりに時代性に依存しているとしても)、それ自体を前面に出す意図はなく、あくまでそれらの操作が複合的につくりだす全体あるいは体験が問題にされているのではないだろうか。坂本さんが「対象としての建築」ではなく「環境としての建築」を志向するというのは、そういったことを指しているのだと思う。言ってみれば、難波さんがよく言及するベンヤミンの「散漫な意識」において現れるあり方こそ重要な建築だという気がする。

《代田の町家》に対する難波さんの視線が「プロフェッショナル」なものだとしたら、古谷さんの視線は「アマチュア」なものだと言える。書かれているとおり、古谷さんには以前から坂本さんの建築の話をしていたので、こうして丁寧に建物を見て(書いて)くださってありがたい。内容としては、最後の「ここからは多木浩二のテキストを逸脱してしまうかもしれない」という部分も含めて、おそらく多木さんや坂本さんも首肯するものではないかと思う。「抽象画家」である古谷さんが多木さんの《代田の町家》論に共感するのは不思議ではないけれど、一方で《代田の町家》の整然とした抽象性・形式性は、実際に古谷さんが絵画や小説で目指すものとは異なる気がする。僕が「《代田の町家》の危機」で書いたような、観念的な全体像や俯瞰的な視点を体験者に与えるような作品のあり方は、古谷さんの創作においてはむしろ敬遠すべきものなのではないだろうか。そしてそれは《代田の町家》の欠点ではなく、絵画や小説に比べた建築の保守性(の重要性)の問題になるのではないかと思う。建築は「散漫な意識」で体験されるものであると同時に、「散漫な意識」自体を支える側にいなければならない(日常性)。

岡さんは去年の《蟻鱒鳶ル》でのイベント()のこともあったから、ぜひ来てもらいたかった。確かに坂本さんと岡さんは普通に見て対照的だろうけど、岡さんが書くように「真逆は一周ぐるっと回って、近しいって事かもしれない」と僕も思う。お二人は(去年のイベントのタイトルである)「〈つくる〉と〈生きる〉の関係」に対して誠実であるという点で共有するものがあり、その実践で対照的であると言えるのではないだろうか。実際、坂本さんの根っこにはバラック的・セルフビルド的なものへの憧憬があり、それに対する建築のプロフェッショナルとしての自分を位置づけたのが、1978年の「〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉」というテキストだっただろう(『新建築』1978年12月号/所収『建築に内在する言葉』TOTO出版、2011)。坂本さんのバラック的なものへの関心は、子供の頃を振り返った『こどもと住まい』(下巻、仙田満編著、住まいの図書館出版局、1990)で語られているけれど、今度の八王子市夢美術館「坂本一成住宅めぐり」展のカタログのインタヴューでもそうした話がされているらしい。会期中、ショップでは『多木浩二と建築』も販売予定です。

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