東京国立近代美術館「14の夕べ」で、神村恵カンパニー《沈殿図》を観た。ダンスパフォーマンス、と言ってよいのか分からないけど、直接的な身体表現というよりも、それを支えながら相関する場の設計が面白かった。ところどころ端折った説明をすると、まずそれなりに広い美術館の展示スペースの一角に4〜5人のパフォーマーがスタンバイしている。会場に入った観客はそれを取り囲んで座ったり、後ろの人は立って眺めたりする。しかしパフォーマーたちはすぐにその輪を崩すように思い思いに動き始め、観客の中に分け入ったり、会場の空いているスペースに移動したりする。そして徐々に会場内で各自(4人)の位置が定まっていき、観客はその4つの点を基点にして、その周りを巡り歩いたり、しばらく立ち止まって眺めたりする。
そのとき各パフォーマーがなにをしているかというと、ひとつの動きを反復している。ひとつの動作をしばらく繰り返してから、近くにあるマイクを取って、「手の甲が太ももを打つ」とか、いまの動作を言葉にする。そしてそれを聞いた別の場所にいる人(神村氏?)がその言葉をノートパソコンに打ち込み、文章がプロジェクターで会場の壁面に投影される。その一連の作業が4人のパフォーマーによってそれぞれの場所で繰り返され、様々な言葉が溜まっていく。言葉はいま例にしたような具体的なものから徐々に、たとえば「角を曲がると台風がやってきた」のような(正確に思い出せないので僕のデタラメ)、詩的なものになっていった。
それが一段落したところで、4人は2人ずつのペアになり、会場の基点は4つから2つになった。2人でなにをしたかというと、さっきAさんが動作し、言葉にしたその言葉を、Aさんが(壁面に投影された文章で確認して)Bさんに投げかけ、Bさんが今度はその言葉から新たな動作を生み出すということを始めた。Aさんがした動作とBさんがする動作は、同じ言葉を媒介にしているとはいえ当然一致するはずはなく(しかし、いまBさんの動作を見ている観客が、さっきのAさんの動作を見ていたとも限らない)、べつに一致を目指しているわけでもないのだろうけど、AさんはBさんに「もっと勢いのある台風だと思って」(これも同様に僕のデタラメ)などとアドバイスしたりする。これもしばらく繰り返し、AさんとBさんが交代もする。
その2人一組の作業が一段落したところで、ようやく4人が会場の中央に集まり、観客もそれを取り囲む。そこで今度は1人が発した言葉に対して3人が動作を生み出していくということが始まる。そのとき3人はそれぞれ自律的に動くのではなく、3人一組としての動きが意識されている。
というようなことが会場で行われたことの大雑把な流れ。あらかじめ強い形式が与えられてあり、そこに即興的なパフォーマンスが乗せられていく。1人のパフォーマーにおける動作と言葉との関係が、2人のあいだの動作と言葉の関係、そして3人、4人へと展開していく。会場の空間の使い方や、観客との動的な関係も含めて、とても巧みで創造的な設計だと思った。
ただその一方、それぞれの動作と(詩的な)言葉との関係には今ひとつ実感が持てなかった。たとえばそれぞれの動作を見ていて、僕はどうしてもチェルフィッチュの演劇を思い浮かべてしまうのだけど(それはダンスの鑑賞体験に乏しいせいでもあると思うけど)、チェルフィッチュの場合は演劇としての物語が一応はあって、人物にも役としての感情があるわけなので、一見デタラメに見える動作でも、その動作が意味することを劇の文脈とともに感受しやすいと言える(その「しやすさ」は同時に、役者にとっても観客にとっても、感覚の働きを止めてしまう罠でもあるだろうけど)。ところが今夜のパフォーマンスではそうした文脈的なよりどころがなく、ひとつの動作とひとつの言葉だけを関係づけなければならない。その意味で、両者を生き生きと響き合わせるのは、パフォーマーにとっても観客にとっても難しい作業だったのかもしれない。観ていてなんとなく、パフォーマンスを観ているというより、パフォーマーのレッスンを見学しているような印象があった。
その印象が生まれた理由としてもうひとつ、そこに思いのほか即興性が感じられなかったということも挙げられるかもしれない。つまり形式としては大いに即興性を生成しうる設計であるはずなのに、実際のパフォーマンスは割とそれぞれの人の身体の癖や思考の癖に依存している感じがあって、言葉と動作が触発し合ったり、人と人とが触発し合ったりという実感はあまり得られなかった。外部に反応するというよりも、それぞれが自身の内部を突きつめるというような。それは本当に僕の印象でしかないのだけど。
ともあれ、とても刺激的な試みではあったと思うし、これを実験として、ここから様々なものが生まれてくる可能性を感じた。入場無料だというので、どんな人たちかもほとんど知らないまま出かけていったのだけど、そんなダンスというジャンルに馴染みのない人間にとっても、思考の取っかかりを与えるパフォーマンスだったと思う。