日本工業大学の卒業設計公開講評会にクリティックとして参加。1名病欠で、16名が発表。3年生のときに設計課題を見た学生も何人かいた。そのうちの何人かはまた来年度に「建築文化リテラシー」の授業で付き合うことになる。
帰りの電車で一緒になったmiCo.の今村水紀さんが、最近建築の装飾のことを勉強する必要を感じているそうで、なにかいい本がないか尋ねられた(今村さんは大学時代のサークルの先輩でもある)。たまたま鞄の中に販売見本の『建築と日常』No.3-4が入っていたので、それを取り出し、大江宏の文章を紹介して、その場で雑誌をお買い上げいただいた。

かつて様式的表現とその装飾的ディテールは、一般社会と建築の専門領域との間を取り結ぶ最も普遍的な絆として、はるか以前から存在した。つまり建築様式や建築装飾は、一般の人びとと建築家の間に通じ合う共通の言葉として、たいへん重要な情報上の役割を果たしてきたのである。例えばスパニッシュ・スタイルとか、コロニアル・スタイルとか呼べば、その大方の建築的イメージは一般の人びとにとっても十分思い浮べることができるのである。また書院造りとか数寄屋風とか呼ぶならば、その建築的雰囲気の大方は、かなりの人びとの間に実感として伝えうるのである。
ところが現代建築家には、己れの造型的表現の中に様式的要素や装飾的手法が介在することに対してひどく潔癖なところがあり、それらの要素の介入は、より純化された建築的表現を低落せしめ、俗化せしめるものと感ずる一種特有の性向がある。またディテールに関してもその美的表現の手法は、なんらかの筋に乗りうるものでないかぎり許容しえないというところがあり、建築の心理的内面の追求に当たっても、その根拠がなんらかの理に適ったものとして自らの納得がえられないかぎりは許容できないのである。理非を超えて美しさそのものを直接追い求め、あるいは条理とは無関係に楽しさそのものに迫ろうとするような直覚的な心情とは自ら別の心理である。いわば現代建築家における美的心理上の構造には多分に教条主義的・禁欲的な側面が強く、したがってそこで達しうる美的表現、心理的追求の域にも自ら一つの限界が存在するのである。

  • 大江宏「様式と装飾」『建築作法──混在併存の思想から』思潮社、1989年(初出:『建築文化』1974年11月号)