昨日のトークでも話題になったけど、『建築家・坂本一成の世界』の書名は僕の提案だった。登壇した他のお三方は、具体的な代案こそないものの、それぞれ多少の難色を示されていた。僕もこの案に固執するつもりはなかったのだけど、結果的に他によい案が出ず、これで押し切るかたちになった。意識していたのはだいたい以下のようなことになる。様々な意味の「複合と対立」を考えていた。
①『〜(個人名)の世界』というタイトルの強さ。これまでの建築の仕事を網羅する今回の作品集の量と質を、簡潔かつ象徴的に示す機能性。
②同時に『〜の世界』というタイトルは、紋切り型といっていいほど極めてありふれたタイトルである。しかし試しに日本建築学会の図書館の蔵書で『〜の世界』というタイトルの本を検索してみると、多くの本がヒットするものの、ほぼ物故者についての本に限られる。その意味で、存命のしかも自らが著者である作品集に『〜の世界』というタイトルを付けることは、ありふれた形式を用いつつありふれた用い方とはやや異なる用い方をするという点(異化作用)において坂本先生の作品の在り方に通じ、それを象徴するのではないか。
③なおかつ服部さんのデザインならば、通俗的でベタな感じの『〜の世界』という面持ちにはならないという見通し。『〜の世界』の相対化。
④「世界」が坂本先生のキーワードの一つであること。実際、日本建築史上、最も多く「世界」という言葉を(地理的な意味ではなく)使っている建築家ではないかと思う。以下ほんの一例。
●建築が対象化してオブジェになるのか、あるいは環境化して場所を形成するのか、そう考えた時、僕にとって重要なのは環境化させるほうなんです。一つの物として強く認識させるようなあり方ではなくて、我々を取り囲んでいる世界の一部として建築を位置づける。(坂本一成インタヴュー「建築をめぐるいくつかの時間」『建築と日常』No.3-4、2015年3月)
●つまり坂本一成の建築がわれわれの関心をかき立てるのは、日常生活と「世界のなかで生きること」の関係を認識させるからである。(多木浩二「日常性と世界性──坂本一成の「House SA」と「Hut T」」『ユリイカ』2001年9月号)
⑤この作品集の構造が、そういった「坂本一成の世界」に呼応し、それを模していること(巻頭の編集言参照)。
⑥『谷口吉郎の世界──モダニズム相対化がひらいた地平』(彰国社、1998年)、「建築家 清家清 展──図面に見る清家清の世界」(日本建築学会建築博物館ギャラリー、2005年)、多木浩二「篠原一男の世界」(『デザイン』1969年4月号)の存在。坂本先生の先生たちに倣うことになる。ただし、これはあまり大きな要因ではない。
以下、表紙まわりの写真3点。この表紙まわりは坂本先生も僕も出版社もなんら異論はなく、服部さんの構想どおりのデザインになっている。