かつてウィンストン・チャーチルは次のように言ったという。「20歳のときにリベラルでないなら、情熱が足りない。40歳のときに保守主義でないなら、思慮がたりない」(宇野重規保守主義とは何か──反フランス革命から現代日本まで』中公新書、2016年、鄱頁)。
歳を取って保守的になるということは、テレビで大相撲中継を観ていても実感する。昔は下位の力士が上位の力士を倒すような番狂わせを、それなりに痛快に観ていた気がするけれど、最近は上位の力士にはなるべく負けないでいてもらいたいという意識がある(もちろんその取組の内容や各力士に対する好み、場所の状況などによって例外は少なくない。白鵬を除いて最近の横綱大関は下位にあっさり負けすぎるという現実も関係しているかもしれない)。上位の力士があまりに負けると、その力士個人の問題を超えて、大相撲の伝統的な秩序まで崩れてしまうような気になってくる。
あるいはそうやってどんどん下克上のようになったほうが、むしろ大相撲全体が活性化してよいという考え方もあるかもしれない。しかし下克上で上位と下位が入れ替わるのはいいとしても(それはこれまでもずっと続いてきたことだろう)、上位と下位という序列自体が無効化されていくのではないかという恐れがある。とりわけ最近、横綱大関に昇進する以前は強かった力士が、昇進すると力を発揮できずに負けが込むという傾向を感じる。上位の権威が薄れていっているような気がする。
もちろん番付の差が絶対的になりすぎてもつまらないから、結局は程度の問題なのだろう。ある程度の範囲内で、上位は上位らしく、下位は下位らしくあってほしい(その「下位らしさ」には、時折上位を倒したり、力をつけて上位に上がったりすることも含まれる)。それは保守の思慮というものかもしれない。以前書いたこと()とも通じるだろうか。