『建築家・坂本一成の世界』が刊行される前、制作作業の終盤に、版元の担当者が作成したリリースの文章を確認することがあった。いくつか問題点を指摘するなかで、文末の「必読の一冊です」というのに違和感を持って「必携の一冊です」に変更してもらったのだが、いま振り返ってみると「必携の一冊です」もまるでハンディなガイドブックを紹介しているようでおかしい。そのときは本を作るほうが大変で、あまり落ち着いて考える余裕がなかったのかもしれない。

「必読」に違和感を持つのは、その言葉遣いに「とりあえず一度読めばオッケー」というニュアンスを感じるからだろう。基本的に建築の作品集はそういうものではないし、たとえ文章がメインの書籍だったとしても、いま読んで分からない本が10年後には分かるということが起こりえる。「必読」という言葉遣いはそういった時間の作用を無視し、本来それぞれ固有であるはずの読書体験が、いつでも誰にとっても均質であるかのようなニュアンスを含んでしまっているように思える。最近ネットを中心に「必読」があまりにも無分別に濫用されているので(自分が読んだものをことさら「必読」と言いたがる人が多い)、「必読」という言葉の価値が急速に下落しているのだと思う。『建築家・坂本一成の世界』は「必携」や「座右」というほど近くでなくても、日常のなかで存在感が持続するような本であってほしい。
青山ブックセンターでの刊行記念イベント(9月6日)の記録を公開するため、文章を整理している。坂本先生から「相補性」というキーワードが出たりして、この本のコンセプチュアルな側面が大いに語られている。しかし、(おそらく坂本先生の建築がそうであるように、)たとえこれが極めてコンセプチュアルな作品集だとしても、それによって日常の使用に差し障りがでるということはない気がする。ふつう建築の作品集がどう読まれるか考えてみると、買った直後は全体が通覧されるとしても、その後はなにかの機会に本棚から取り出され、作品単位で断片的に読まれることが多いはずだ。そのとき、ある種のコンセプトによって全体が統制された作品集だと、そういう断片的な使用を疎外することになるように思える。作品集自体が一種の作品として、あくまでその全体的な鑑賞を求めてくる。しかし今回の本はコンセプチュアルであれ、たぶんそのような在り方ではない。べつに作っている最中にそんなことまで想定していたわけではないけれど、コンセプトに先立つ出版の意志や目的意識が、そういった日常における断片的な使用を必然的に許容するのだという気がする。