吉田健一『東京の昔』(中央公論社、1974)を何年かぶりで再読。このまえ読んだ『絵空ごと』(9月21日)と同じく、ここでも「時代」という観念が批判的に書かれていた。

こつちは雑誌に付いてゐる題以上に時代といふものが信じられなかつた。「實は丙種だからね、先づ戦争が起こつても取られないだらう。もし取られればもう日本の負けだよ。併し假にさういふことがあつてもそれでそのこれからの時代がどうにもなるものぢやないだらう。やはり負けても何でもその戦争が終ればこつちは胸を撫で降すだらうし、さういふことになつて時代なんていふことを思ふかね。そしてそれを思はないのがどうかしてるんぢやないんだ。貴方だつて、誰だつてきつとさうだよ。その胸を撫で降すんだつて自分がもと通りの人間だからぢやないか。それで自分はもと通りでこれからの時代なんていふことを考へたつて何の足しになるのか。それよりもこれから自分がどうするかで自分の一生は時代ぢやない。」
「時代つていふものはないのか、」と勘さんがそこまで話を進めた。
「ないさ。」どうもそんな氣がした。「例へば石器時代つていふものはあつた。それから、」と幾つかの時代の名前が頭に浮んだのをどれも知識人を匂はせるものなので凡て消した。「或る長い期間をずつと後になつて振り返つて見ればそこに時代があることになるけれど、そのどの時代だつて今は今だつたんだよ、この今が今なのと同じで。」何だかさういふ話をしてゐるのが滑稽になつて来た。「現に我々はかうして飲んでゐて今から三百年前の人間もやはりこんな風にして飲んでゐたんだ。それでいい筈だと思ふんだけれど。」(pp.26-27)

「時代」という観念に対する不信感が、人間の日常の確かさと比べて説明されている。これは例えば僕が3.11という呼び方に不信感を抱くことと通じるかもしれない。まさに今は「3.11以降」という時代であると盛んに言われているけれど、以前10+1 websiteのアンケートに応えて、3.11とは「人々がそれぞれ固有に経験したどうしようもなく暴力的な出来事に対して、それを上空飛行的な視点から抽象化し、名づけること」だと書いたことがあった()。
現代という時代を特別に抽象化・断片化するのではなく、現在をさまざまな過去の持続のなかに見ること。下の文で考えられているようなことが、おそらく2年後の『時間』(新潮社、1976)で展開されている。

古木君でなくてもプルーストの問題がそこにあつた。或ることがあつたのはただあつただけなのか、それともあつたから今もあるのか、もし或ることが明確に意識されることがそれが現にある證據ならば普通は過去と呼ばれてゐるものも實在し、もし一切を刻々過ぎて行く時間に基いて考へるならば何もありはしなかつた。従つて一般に時間と見做されてゐるのと別なものをそこに認めなければならないのか。それは自分が現にゐる場所では實際には誰もがやつてゐることでただ昨日あつた建物が今日もあるからそれはあると決めるのがその二つに共通なのはその明確な意識だけであることに即しての飛躍であるのを無視してゐるのに過ぎなかつた。併し日本とヨーロツパ程の距離があると眼で確かめられないといふただ一つの事情に邪魔されて意識、記憶、或はその普通のものでない時間の方が信じ難くてそれならばこの現に記憶にあるものは何なのかと足が宙に浮く感じがした。(p.153)