小さなメディアの必要

津野海太郎小さなメディアの必要』(晶文社、1981)を拾い読み。テキストは青空文庫でも公開されている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000117/card611.html
70年代末から80年にかけて書かれた文章を集めたものなので、書名で示されているようなことばかりがテーマになっているわけではないけれど、基本的に『建築と日常』の問題意識と重なる感じがする(たとえば→2010年8月2日)。30年も前、80年代を経る以前に、このような認識が提示されていたということ。ただ、「小さなメディア」が氾濫する現在においては、この本で書かれているのはメディアの大小という規模の問題ではなく、血の通った有機的なメディアのあり方の問題と考えたほうが誤解がないかもしれない。

 ここでのポイントは「自己否定から出発する」というところにある。[略]自分たちの本がなにものによっても権威づけられないひとつの「提案」であるということ、それ以上のものにするつもりはないという姿勢のきめかたを示している。これは本を作品として、もしくは商品として市場におくりださなければならない者にとっては、そのまま承認することがむずかしい原則である。かれらはこの本を手がきの文字とマンガ、それに新聞の切り抜きをくみあわせてつくった。印刷は軽オフセットである。威圧的なところ、押しつけがましいところはまったくない。だからこそ商品としての力に欠けていると私たちだったら考える。だが定価四○○円のこの本は、発売後一年たらずで、すでに五○○○部ちかい部数が売れているのである。手から手への販路で、どんな組織的背景もなしに。これからもさらに売れつづけるだろう。
 こういう本を見て、これとおなじようなものを自分でもつくってみたいと思う。これは編集者としての習慣化された反応である。マンガやレイアウトをもっとうまく、読みものとしてももっと洗練されたものがつくれるはずだ。そう思ってやってみたとして、もとの本よりも力のあるものが本当に私につくれるのだろうか。[略]とことんのところでその自信が私にはない。
 本の世界は、ふつうに私たちが思っているよりもずっとひろいのではないか。[略]専門の執筆者と専門の編集者とが協力して、大小の差こそあれ、出版企業の商品としてつくりだす本のほかに、それとはちがう本のつくりかた、ひろめかたがあって、私たちとは別のところで、その経験が蓄積されつつある。商品としての本づくりを基準にして見れば、それはアマチュアの仕事ということになるが、かれらにつくれる本が私たちにはつくれないという点では、私たちこそがアマチュアなのだ。そう考えたほうが問題がはっきりする。私たちが仕事の前提にしている本の世界はせまく、ますます畸型化しつつある。(「本の野蛮状態のさきへ」pp.102-103)