11/25(日)のイベントの企画がまだ固まる前、ゲストとして空族の方々に声をかけてみてはどうだろうと思って、中山さんとのマッチングについて、試しにこのブログでさりげなく書いてみたことがあった(8月23日)。そのときは中山さんの「窓のあっちとこっち」(『窓の観察』掲載)と『国道20号線』『サウダーヂ』を作品の内容の面で比べているけれど、その後、会場に蟻鱒鳶ルを借りるというようなアイデアが出てくるなかで、作品の内容よりもそれを支える在り方のレベル、つまりイベントのタイトルにもなった「〈つくる〉と〈生きる〉の関係」という点こそ問題なのではないかと思うようになった。
そう思うようになった背景には、このブログでもたびたび触れてきた、日常性と専門性の関係という僕自身の問題意識もある気がする。たとえば柴崎さんやqpさんの作品はそれぞれの作者の日常性に根づいていて(〈つくる〉と〈生きる〉の重なり)、それが僕にとっての魅力のひとつの要因になっている。しかし、そうした小説や絵画や写真などの媒体に比べ、映画も建築も必然的により多くの人が関係し、より大きなお金が動くものであるという意味で、日常性よりも専門性の重視、言い換えると〈つくる〉と〈生きる〉の乖離が起こりやすいのではないだろうか。とりあえずそこに映画と建築の社会的な共通性が見いだせる。
建築家がまず仕事の依頼主を必要とするという点で、社会に対してどうしても受け身にならざるをえないということは、戦後の日本の建築界でジレンマのように語られてきたし(いわゆる巨大建築論争とか、伊東豊雄さんの「消費の海に浸らずして新しい建築はない」とか)、震災を経てそのあたりの職能の問題はあらためて明るみに出ている。そうしたなかで岡さんのような建築の自主制作の活動は批評性を持ちうる。ただ当然ながら、みんながそれを真似できるわけではないし、真似したほうがよいわけでもない。
一方、映画のほうは昔から自主制作の作品が文化として一定の存在感と重要性を持ってきたと思うのだけど、近年、デジタルの機材や設備の発達、シネコンの台頭とそれによる作品の二極化などによって、自主制作をめぐる状況は変動しているらしい(参照:特集「日本映画のための挑発的資料」『nobody』34号、2010.10 →HP)。ただ少なくとも、ツールの発達によって誰にでも映画を撮ることが容易になったとしても、それがそのまま映画全体の文化の質を向上させると楽観視できないだろうことは、同様にツールの発達によって誰にでも作ることが容易になった雑誌や出版物の現状を見るだけでも十分に類推できる。それは作ることが容易になったことにより、商業主義とはまた違ったかたちで、〈つくる〉と〈生きる〉の乖離が起きたと言えるかもしれない。
だから建築にしても映画にしても、形式としての「自主制作」と「〈つくる〉と〈生きる〉の関係」はあくまで異なるレベルにあり、それぞれ必要条件でも十分条件でもないのだけど、空族の作品はそこを貫いて、広い意味でのインディペンデントであることのリアリティを感じさせる。隈さんは「『サウダーヂ』を見ていてまず感じたのは、ある意味で戦後日本における国家産業の位置を占めてきた「土建的なもの」の崩壊過程が、映画の中で結晶化されている、ということでした」(10月30日)と指摘したけれど、そういった専門的な見解を抱かせる前提として、ジョン・カサヴェテスが「ぼくは社会構造を「暴露」しようとしたわけじゃない。[…]ぼくにとって、問題なのは人間なんだ」(11月1日)と言ったのと同じ精神がそこにはあるに違いない。そしてその部分は映画や建築といったジャンルを超え、同じ日常性の地平で話ができる部分ではないかと思う。僕がするのではないけれど。