(1)自己参照的メカニズムによるデザインの展開
(2)建築の意味が確定することの拒否
(3)価値観を明示した総体的建築の提示
(4)モダニズム建築への逆照射

(3)(4)は、論理的に(1)(2)を踏まえているから限定的な見方をせざるをえないけれども、それぞれで主張していることは理解できる。
(3)で言われている作品の全一性や有機的統一性のような質は、実際にそこを訪れないと認識しづらいのかもしれないけど、きっと松村の建築の大きな魅力なのだろう。それは建築に限らず基本的に芸術作品全般に重要な質であり、しかし近代以降、特に建築では成り立ちにくくなっている質だと思う。(1)(2)をもう少しニュートラルに言い換えても指摘できた気はするけれど、松村の建築の歴史的重要性が示されている。
(4)は、やはり「モダニズム建築」を一枚岩に見過ぎていると思うのだけど、「見たことがないのに懐かしい」というような元型的な質には個人的な興味もあるし、実際に松村の建築はそこに到達しているのかもしれない。ただ、たとえその建物を過去に見たことがなくても、小学校の校舎の形式が一般的にノスタルジーを感じさせることは僕も以前『nobody』に書いたし(→誌面PDF)、「見たことがないのに懐かしい」という質は、たとえば藤森照信の神長官守矢史料館に対して隈研吾が指摘していたりもするから(『神長官守矢史料館』TOTO出版、1992)、そう簡単に「モダニズム」と結びつけるわけにもいかない。そもそも松村の建築にノスタルジー性があるということを、佐々木宏が日土小学校について書いた一文(1967年)だけに依拠して(それまで同時代の評論を次々と「相対化」してきたにもかかわらず)論じるのは、学術論文の結論として弱いし、恣意的なスタンスを垣間見せてしまう。つづく。