昨日訪れた「篠原一男と7つの住宅論」展では来場者にふたつの冊子が配られていた。ひとつが展覧会のカタログ『篠原一男と7つの住宅論』で、B5判モノクロ54ページ。もうひとつが桑沢デザイン研究所の教員で展覧会の企画者の大松俊紀氏による写真集『篠原一男の10の住宅』、B6判(横)モノクロ224ページ。カタログに掲載されている篠原作品の施主インタヴューも問題が多いという話は耳にしていたのだけど、それに輪をかけて写真集の内容は目に余る。本の始めには次のように書かれ、タイトルの通り、篠原一男が設計した10軒の住宅の写真が掲載されているのだけど。

これは私が今まで撮り続けてきた篠原一男の住宅写真の一部をまとめたものである。一番古い写真が15年前のものであるから、足掛け15年に及ぶ記録である。篠原一男は、自身の作品発表に際して、写真の選別にかなり神経を尖らせていたことは有名である。であるから、我々の知る篠原住宅は、ごく断片的なものであり、ある意味、篠原によって作り上げられた“虚構の空間”でしかなかった。この写真集は、その裏側を少しでも紹介することで、新たな篠原一男研究に繋がれば、という思いから編集された(大松俊紀)。

篠原一男のような作家の「神話の解体」は必要だと思うけど、それは健全な批評精神のもと、一定の形式を踏まえて行われるべきだろう。この写真集の出版はそれに至らずに、単なる自己満足のための行為に見えてしまう。写真はいかにも素人の住宅見学写真で、素人なりに構図を整えようとか、同行の見学者をフレームから外そうとかいう意志もうかがえない。そして、たとえ写真表現の拙さに目をつぶったとしても、それらの写真が、これまでに発表された篠原作品の写真やその構成を分析したうえで、「新たな篠原一男研究に繋がれば」という批評的な意識を持って撮影され、編集されたものとは思いにくい。さらにそういったなかで、篠原自身が発表しなかった住宅も2軒取り上げられている。
また、出版にあたり、それぞれの住宅の住人に許可を取ったのかも疑わしく思える。問題は単に無防備のプライベートな空間の露出といったことだけではない。それはなにより篠原一男の住宅だ。篠原の住宅の施主ならば篠原がこういった写真の流出をどう思うかというのはもちろん分かっていたはずだし、その空間はそうした施主と建築家の固有の関係のなかで生きられてきた、ある種の歴史的空間と言えるだろう。この写真集の出版は、そのような意味を持つ空間を蹂躙することになってはいないか。
こうした問題は、それが営利目的の商業出版であるかどうかとは関係がない。そこには篠原個人への敬意だけでなく、もっと根本的な、芸術や人間の活動への敬意、畏れが欠けているようにも思う。そもそも上記の文で前提にされているような、客観的な全体像を持った「篠原住宅」というものは存在しない(だから「断片」も「裏側」もない)。つまり大松氏が言う「“虚構の空間”でしかなかった」ものこそが、建築家としての篠原一男が提示した「篠原住宅」であるだろう(それを虚構と言うなら、大松氏による写真もまた虚構だ)。そしてそれを解体することは、そこに懸けられた篠原の生を解体することでもある。そのことに対する自覚と覚悟があってこそ、新たな「篠原住宅」や新たな篠原の生が見いだされうるのではないだろうか。僕自身の職業にも関わることだけに、シビアに考えたい。