昨日の住宅は建築家の自邸だし、設計者/住人もよく知っており、なおかつ批判を先行させなければならない作品ではなかったから、あまり気兼ねすることもなかったけど、ある建築について特にネット上で書くときには、自分の文章がもたらしうる影響について無自覚でいてはいけないと思う。以下の引用文のとおり、建築には「いろいろ複雑な関係」がある。

建築は元来絵画彫刻と異り注文者あつての建築で、建築家が自力で建てるものではありません、社会的にも其他にもいろいろ複雑な関係があります。ですから批評は御自由ですが、きいた風な悪口はお互につゝしみませう。設計した建築家をペチャンコにへこました処で、それは楽屋落ちになりますからね。

  • 渡邊仁「建築物の批評について」『建築世界』1928年1月号

建築は現実世界で様々な側面を持つ存在だから、自分の文章が予期せぬ人に予期せぬ読み方をされることもあるだろう。僕自身、批評や批判は(時には非難や悪口も)必要だと考えているほうだけど、建築をめぐってはそこで十二分の慎重さが求められる。
それは特に個人住宅(さらに新築)で顕著だろう。自分では作品として肯定的に批評しているつもりでも、非専門家である施主/所有者にとっては、専門家による何気ない言葉の一つが心に影を落とし、その後何十年とその家に住んでいくなかで、心にその影が残り続けるということもないとは言えない。
昔あるシンポジウムで、自分が設計した公共的な集合住宅を紹介する建築家がいた。SOHOを想定し、ガラスの玄関ドアが住戸内に視線をとおすデザインだったのだけど、建築家が見せた写真はそのドアに紙か布で目隠しがされたもので、「こんなことするなら最初から住まなければいいんですけどね(失笑)」と言った。わざわざそういうところに住む人であれば、ガラスのドアにこそ抵抗があったとしても、建築のデザイン性の高さを気に入って住んでいたかもしれず、ということはそのシンポジウムを聴きに来ている可能性さえあったはずだけど、もしその住人がこの場にいたら居たたまれないだろうなと思ったのを覚えている*1
自分が好きな映画や音楽や小説が批判されても悲しいことはあるけれども、やはり衣食住に関わるものへの言葉には特別な重さが生じる気がする。たとえばファーストフードやファーストファッションを批判することはたやすいし、その批判は社会的に必要だとも思うけど、決して侮蔑とともに全否定してよいことはない。その食べ物がどんなにひどく文化的でない食べ物だったとしても、それを食べて生きている人はいるのである。ハウスメーカーの住宅を批判しようとするとき、はたして自分が好意をもつ人や尊敬する人にそうした住宅に住んでいる人がいないかどうか、いたとしても批判できるかどうか。そういうことを具体的に想像した結果、あるいは余計な批判をする必要がなくなっているかもしれないし、それでもやはり必要を感じて発した言葉は前よりも精度が上がっているかもしれない。
ひるがえって自分が最近した建築批判としては《こども本の森 神戸》(設計=安藤忠雄、2021年竣工)について書いたものがある(3月31日)。実際あの批判をするときも、そこの職員や利用者のことが頭をよぎってはいた。しかしあれはあくまで一個の建築に対する批判というより、その建築のなかの本棚のデザイン、本の扱い方への批判に限定して書いたつもりだし(だから建物を実見しないでも書くことができた)、たぶんあの建築の場合、僕がある程度なにを書いたところで施設を楽しく利用する人はするだろうし、職員がことさら理不尽な思いをすることもないだろう。なにより僕が書いたときすでにそれは盛大に炎上していた。その意味でいうと、僕の文章は安藤さんのデザインを批判するものであると同時に、炎上によって巻き起こった的外れな批判や誹謗中傷もまた批判するようなものだったと自分では思っている(あの本棚のデザインが「良くない」のは、家のなかでトイレに行くのに傘を差していかなければならない不便さが「良くない」のとは意味が違うし、打ち放しコンクリートが夏熱く冬寒いのが「良くない」のとも違うし、地下鉄渋谷駅の動線が悪くて使いづらいのが「良くない」のとも違う)。

*1:ちなみにこの建築家については、それと近い時期の別のシンポジウムで発した言葉も印象に残っている。「今どき水道水をそのまま飲む人なんていないですよね(薄笑)」。