『大豆田とわ子と三人の元夫』(6月3日6月12日)、録画しておいた第10話を観た。最終回。傑出して良いドラマだった。がこの回だけで言うなら腑に落ちないところもある。これまでの物語を想起させる様々な「反復と差異」が仕組まれていると思うのだけど(それぞれ同性の幼馴染みをもった娘と母、男尊女卑の社長と西園寺君、港の詐欺師と初恋の人…)、それらは観念的な形式として認識はできるとしても、体験的なレベルでどれだけ響いてくるものなのか。(ホン・サンスの映画によく見られる)「反復と差異」という形式の目的として僕が想像しうるのは、自己と他者、親と子、偶然と必然、過去と現在といった対立的な構図から世界のあり方を浮かび上がらせるようなことだけど、少なくともそういう体験は得られなかった。現代の社会的・時事的なトピックをストーリーに組み込むこと自体が達成目標になっているような最近のテレビドラマ(ほとんど観ていないので偏見もあるかもしれない)に対し、このドラマはそうした骨組みにきちんと肉付けがされ、もはや骨が先か肉が先かも分からないほどすべてが一体化し、物語が生きているところに見どころがあった。けれどもこの最終回だけはどうも印象が異なる。
あるいはなぜか1話分に要素を詰め込みすぎて、尺が足りていないということかもしれない(最終回だから特別に放送時間が長くなるということもなかった)。とわ子の両親の話は第9話までそれほど語られることがなく、物語の厚みがないままいきなり重要な意味を担わされたように思えるし、素人役者で妙な実在感があったセクハラ社長に比べて西園寺君は実体がないまま簡略的・記号的にストーリーに奉仕する。初恋の人との再会も、有機的にかたちづくられたこのドラマのなかで、いかにも取って付けたようで据わりが悪い(第9話からの流れにおいて、とわ子を浮ついた恋愛体質と感じさせるこのエピソードは本当に必要なのか)。ところでラストはあらためて3人の元夫が並列になってとわ子と向かい合い、『大豆田とわ子と三人の元夫』というタイトルに戻ってくる感じがあった。しかしだとすると、とわ子─かごめ(幼馴染みの親友)─八作(一人目の夫)の3人で生きていくという第9話の感動的な決断はその意味を維持できるのか。それともその決断を相対化するようなものとしてのラストだったのか。すとんと腑に落ちない。第1話は録画し損ねたけど、ともかくいずれまた通して観てみたい。


このドラマをめぐっては、古谷利裕さんが毎回ブログで細かい分析や感想を書かれていた。

全体として僕とはだいぶ視点が異なるものの、いつものように色々と教えられるところがありつつ、第9話の時点で書かれた「小津や成瀬が現役だった時、彼らの映画を封切りで観に行っていた映画好きの人たちがリアルタイムで感じていたのは、このような驚きだったのではないか」()という指摘は、僕も似たようなことを感じていた(僕の場合は特に小津安二郎だけど。このドラマが保守的で平凡な真っ当さを描き、「現代において善く生きるということとは?」ということをテーマにしているのではないかと書いた意味でも)。それは一般に映画よりも「芸術的価値」が低く見られがちなテレビドラマにおいて、しかし『大豆田とわ子と三人の元夫』は小津や成瀬といった「歴史的巨匠」の作品と並ぶ豊かさをもつのではないかという意味が一方にあり、もう一方には、今では「歴史的巨匠」として権威的に位置づけられる小津や成瀬も、同時代においてはよりポップな存在で、多くの人々により直接的に響いてくるものだったのではないか(テーマ的なところや形式的なところ、普遍的なところだけでなく、同時代ゆえに細部から全体までが名状しがたいものとして)という意味がある。