新刊『Almost, Not: The Architecture of Atelier Nishikata』(Leslie Van Duzer著、ORO Editions)。出版社のサイトでは「between an architectural monograph and a magic instruction book」みたいな紹介がされていたので、ヴァン・デュザー氏のテキストはかなり尖った論考かと思いきや、建築家の思考に寄り添い、作品自体を細かく丁寧に解説するものだった。アトリエニシカタの西尾さん自ら訳した私家版の和訳冊子があってよかった(写真右)。この冊子は今のところアトリエニシカタの公式オンラインストアのみの頒布らしい。
彼らの仕事において、建築は、それ自体の物質的存在を覆い隠す力があるとみなされている。ちょうどマジックにおいて、マジシャンが扱う小道具が、ショーの最中にふっと姿を消してしまうように。建築は、身体とその空間的想像力を完全に引きつけると、物理的境界や視覚イメージを凌駕するのだ。(和訳冊子、p.5)
推察するにこのテキストは、ミースやアドルフ・ロースなどの近代建築を研究する(かつマジシャンを兄に持つ)著者固有の視点に立ちつつ、アトリエニシカタとの十分なコミュニケーションにも支えられているのではないだろうか(実際のところは知らない)。
たとえば小説や絵画や映画などでは、ある作品の批評を書くに際して、作家本人に「ここはなぜこうなっているんですか?」とか「ここはどういうふうに作ったんですか?」とかいったことを確認するのは野暮であったりナンセンスであったりゲームのルール違反のように思われているきらいがあるけれど、建築の場合、作品の存在に対して一人の主体が認識あるいは経験できることは本質的に限られているし(たとえば私は見学に訪れたある建築を、すべての時刻で、すべての天候で、すべての季節で、すべての年齢で、すべての性別で、すべての立場で経験することはできない)、狭量な批評の自律性にこだわることなく、聞ける話は聞いたほうがいい。それこそ吉田健一が言うように「正確な線が引ける」と思う(昨日の日記参照)。ある種の歴史研究でも、作家本人の死後のほうが自由に論じられるという考えがあるけれど、作家の死によって封印されてしまうものも軽んじられない。作家本人が特定のセルフイメージを強要してくるような場合はまた難しいとしても、お互いに無私の協力関係が結べるようならば。