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写真を撮りながら近所を散歩。まえに書いた(2月28日)早渕川沿いの道。「写真に写した家はしばしば現実で見たよりも強く存在感をあらわすように思われる」(4月24日)というのは、たとえば上のような写真において。とりあえず僕が撮っているかぎりでは、あまり規模が大きくない建物に対して、標準から望遠のレンズを用い、ある程度距離をとってきちんと垂直になるように撮影すると、「それがそこに在る」という存在感が出る、と言える気がする。これはかなり安易なレベルでの話だけど、たぶんこの方向の先(?)にはウォーカー・エヴァンス(2017年2月11日)やベッヒャー夫妻がいるのだろうとも思う。この辺のことについて、多木浩二は次のように述べている。

 私を含め、建築と写真とを向かい合わせながら考える人間にとって、もっとも面白いのは、建築は、写真が登場する以前は必ずしも「見られるもの」ではなかったという点です。建築の周囲をまわり、中に入り、あるいは触ることはあっても、建築は必ずしも視覚的に「見られるもの」ではありませんでした。ところが写真が登場したことによって、建築は「見られるもの」あるいは「見えるもの」として存在し始めたのです。建築は視覚的形式をもつようになったのです。
 巨大な建築の全貌は、なかなかとらえにくいものですが、写真に撮られることによってそのイメージが縮小され、一方、人間にとっては、小さく縮小されたものの方が視覚的に知覚しやすいということによって、認識や知覚の違いが起こったのです。これについてはヴァルター・ベンヤミンも記しています。建築それ自身を目で見るよりも、建築写真を見る方が建築を認識しやすい理由は、結局、この「縮小」に鍵があります。

  • 多木浩二「建築と写真」『建築と写真の現在』TNプローブ、2007年

写真の登場以前には建築は必ずしも「見られるもの」ではなかったというこの指摘は、いまだにどう捉えていいのかよく分からない。例えばパルテノン神殿やピラミッドなどのまさしく建築を代表するような建築は、その存在の本質的なところで「見られるもの」だったのではないかと思うし、それらがなんらかの視覚効果を考慮して造られたことは明らかだろう*1。だから多木さんがどういうつもりで言っているのか定かではないのだけど、ともかくその部分はいったん棚上げし、同じ文章のなかで「何でもない建物が、写真に撮られることによって、誰にとっても普遍的な形で存在するものとして浮かび上がってきています」と、ウォーカー・エヴァンスなどの写真を例に述べていることについては、自分でも「何でもない建物」を写真でよく撮るようになり、たしかに実感するようになってきた。
おそらく写真におけるこうした「縮小」や「普遍化」の行為は、人間が言葉を生みだしたり地図を描いたり何かをコレクションしたりすることに通じる根源的な性質(抽象や超越への指向)を持つのだと思う。撮っていても、ある種の(ささやかな)快楽がある。しかしそういう写真ばかり多く撮っていると、それらの写真が「それがそこに在る」ことを超え、なんとなく象徴的な意味を漂わせていることが気にかかってくる。おそらくその象徴性はエヴァンスやベッヒャーの写真にもあるもので、そこがそれぞれの写真における表現(もっと言うとテーマやメッセージ)に関わるところなのだと思う。つまり、彼/彼女たちはただ単に「何でもない建物」を撮ったのではなく、それぞれの対象や状況に呼応して、「何でもない建物」を「何でもない建物(しかし何でもなくないもの)」として象徴化させたと言えるのではないか。
一方、と並べるのもおこがましいけれど、僕の場合はそういう表現の意図は特になく、近所を散歩する最中に「お」とか「お!」とか「おー」とか思う家や建物の情景をただ撮っている。だから「それがそこに在る」ことを写したいとは思っても、それぞれの「お」とか「お!」とか「おー」とかいう範囲を超えて、その家や建物が象徴的に際立ってしまうのはあまり本意ではない。けれどもそうして象徴化された写真は写真としては強度があるというか、バシッときまっているように見えるので、それはそれで捨てがたい。というかどうすればそれを捨てられるのか分かっているわけでもない。とりあえずは形式主義にならないように意識し、それぞれの空間の有り様になるべく反応して撮るほかないかと思っている。
以下、写真10点。
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*1:それらの古代建築は、人間のスケールをはるかに超える巨大さを持ちながらも、それぞれの強い幾何学性によって、その全体像を想像的に知覚させやすい。そういう意味で、それらは頭の中でイメージとして「縮小」されているのだと言えるかもしれない(例えばゴシックの大聖堂だと、前知識なしに正面から裏側を想像することはできず、頭の中に「縮小」しづらい)。