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写真を撮りながら近所を散歩。午前の透明な光がこの季節特有の植物の息吹と相まってすばらしい。花はそれ自体の色や形が美しいというより、僕にとっては凝縮された生の象徴のような魅力がある。ある広がりをもった場所の全体が、春になって咲いた花がところどころに点在することで活性化する、そんな様子がなんとも言えずよい。
しかしそれを写真で撮るのは難しい。「花がある空間」もしくは「空間にある花」を写そうとすると、花は相対的に小さくなり、その平板化した写真の画面において、肉眼で見たときの生き生きとした存在感をほとんど消してしまうし、花自体をより大きく写そうとすれば、こんどは空間が写らない。さらに「花がある空間」「空間にある花」を写真として見るには、花の存在感が消えない程度の大きな画面が必要にもなるだろう。理想的には原寸大にまで写真を引き伸ばせたらよいのかもしれないが、写真をそういうサイズ依存の方向で位置づけると、結局写真と現実を直接的に対照させることになり、写真が現実の代用品ないし劣化版でしかなくなってしまう気もする。あるいはこうした情景は写真よりも絵画のほうが正確に表現できるのかもしれない。たとえば印象派の風景画に描かれた花は、その各々は絵の具の点にしか過ぎなくても、空間のなかで写真における花よりも強く存在感を出すことができる。
上掲の写真について言うと、空間の広がりも花の存在感もどちらも物足りない(上と下なら上のほうがまだ雰囲気はあるだろうか)。自分が経験した空間を再現するために、引いて撮った写真と寄って撮った写真で2点組にする方法も考えられるけど、それはそれで写真が説明的になり、現実の見方を限定してしまいそうな気がする。
ところでこうした花の存在感の写らなさと対照的に、写真に写した家はしばしば現実で見たよりも強く存在感をあらわすように思われる。だから家を撮った写真は絵になりやすく、それに気をよくして、ついそういう写真を撮りがちになる。しかしそれはそれで空間を正確に写しているのかどうか、疑問の余地がないとは言えない。
以下、写真8点。
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上の写真の家々は「現実で見たよりも強く存在感をあらわす」というわけでもなく、実際に強い存在感を放っていた。


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ネギの花に魅了される。これはフォルムが際立っているので、写真の空間のなかでも存在感が出やすい。僕自身は覚えていないのだけど、赤ん坊のころに親戚の家で台所までハイハイしていってネギを囓っていたという逸話が残っていることをしばしば自慢話にするほどのネギ好きを自認していながら、いま住んでいるところに越してくるまで、こうして花を付けたネギの姿を目にした記憶がない。子供のころに観た『キテレツ大百科』のアニメでブタゴリラ(今の世相だとこのあだ名はNGだろうか)のお父さんがコロ助のことを「ねぎ坊主」と呼んでいたことの意味が、当時から30年以上の年月を経て唐突に理解された。
ついでに言うと、アニメ版『キテレツ大百科』(1988〜1996年)は数年前にネットの無料配信で数百話を見返している。80年代末の放送開始時、主人公たちは小学生の僕とちょうど同世代で、発明×SF×歴史物というのが僕の好みでもあったのだろう、それなりに楽しんで観た覚えがあるのだけど(数多い藤子不二雄のアニメのなかでも『キテレツ大百科』に最も親近感があるかもしれない)、その自らのノスタルジーも作用しているとはいえ、あらためて観て、作品として十分に質の高いものだと感じられた。おそらく映画好きで教養のある人たちがアニメを作っていたのだと思う(映画『イントレランス』(1916)の撮影現場にタイムスリップし、D・W・グリフィスと出会う話があったりする)。子供向けのアニメを隠れ蓑にして自分たちがやりたいような革新的・実験的なことをするということもなく(僕はある種のピンク映画にそういう印象を受ける)、単純に子供たちが楽しめるとともに、単なる子供だましではない、子供が大人に成長していくときに良い影響を与えるような作品が志されているように思われた。その性質はある程度原作に由来するのかもしれないが、最近のアニメにはあまり見られないもののような気がする。
『キテレツ大百科』を再見した印象はこのブログで書いた気もしていたのだけど、検索しても引っかからなかった。書かなかったのは、この歳で『キテレツ大百科』数百話を観ていることを人にあまり知られたくなかったためかもしれない。パソコンのバックグラウンドで再生し、なんらかの仕事をしながら観た(聴いた)ことが多かったことをいちおう記しておく。