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ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチ論 全三篇』(恒川邦夫・今井勉訳、平凡社、2013年)より。ヴァレリーというとデカルトの系譜にいる「卓越した理性の人」という印象が、ろくに読んだこともないのに僕のなかでつくられていた。しかし上のような言葉はそのいいかげんな印象に反省を促す。おそらくヴァレリーの理性は、理性というものそれ自体の批判もするような理性なのだろう。保守と革新という対比で考えたとき、理性は革新と結びつきやすいけれど、ヴァレリーの理性は多分に保守思想にもとづくものなのではないかと思う。
吉田健一が自身で翻訳も手がけているT・S・エリオットとヴァレリーを比べて、ヴァレリーのほうが上だったか共感するだったか、たしかそういうことをどこかで書いていた。吉田とエリオットは両者とも『建築と日常』No.3-4で大いに共感しながら参照していたから、その物言いには多少引っかかったのだけど、エリオットとヴァレリーの比較はさておき、吉田健一がヴァレリーに惹かれるのは分かる気がした。たとえば以下の文にも、過去や文化や日常や近代といったものに対するヴァレリーの認識がうかがえる。

 美術館はあまり好きではない。見事なものはたくさんあるが、居心地のよい美術館というものはまったくない。分類、保存、公益といった理念は正しいし明快だが、愉楽とはあまり関係がない。
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 逸楽も道理も蔑ろにするような文明だけが、この不調和の館を建造することができたのだろう。死んだヴィジョンの数々がこうして隣り合わせに並んでいる様子からは、何かしら狂気じみたものが生じている。それらは互いに嫉妬しあい、みずからを生きた存在にしてくれる眼差しを奪いあっている。それらは四方八方から、私の不可分の注意を惹こうと呼びかけてくる。それらは、生の際立つ要所を狂ったように逆上させ、見る者の身体器官の全体をそれが惹きつけられるもののほうへと引きずり込もうとする……。

  • ポール・ヴァレリー「美術館の問題」1923年、今井勉訳(『ヴァレリー集成Ⅴ 〈芸術〉の肖像』筑摩書房、2012年)