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写真を撮りながら近所を散歩。一眼レフで撮るときはいつもだいたい垂直性を重視した建築写真的な写真になっているけれど(上の写真も微妙に回転&トリミングして、超高層ビルが垂直になるように合わせている)、一般的な建築写真が撮影者の視線を感じさせず、あたかも無限遠から対象をフレーミングしているかのような性質があるのに対し、僕の写真では撮影者の視線の存在がそれなりの意味を持っている気がする。それは必ずしも特定の対象(上の写真ならば遊具で遊ぶ子ども)を見つめているといったことだけではなくて、人間が散歩中に景色を見るときに果たしてこういうフレーム/バランスで見るかどうかとか、この部屋に入ったときに「写真を撮る」行為以外でそこをそういうふうに見るかどうかとか、そのへんの動作としてのリアリティとの関わりが大事なように思っている(そのリアリティを最優先するということではない。それは時に写真の垂直性・抽象性と対立する)。僕には「なんでもないもの」を撮って詩的もしくは叙情的に成り立たせたり、写真を現実からある程度切り離して「絵」として見せたりするセンスや技術はないので、あくまで現実の力を活かすというか、その力となるべく関係させたかたちで写真を撮るのがよいのだと思う(さいわい最近歩きまわっているこの近所の景色は被写体としてそれだけのポテンシャルを持っている)。写真における視線のあり方は、撮影後にトリミングして写真の重心やバランスをずらすことでも多少は調整できるし、それは僕にとってけっこう重要な作業だけれども、その事後的な操作には限度があるので、やはりまず撮るときにそこを的確に捉えられるに越したことはない。以下8点。
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