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南洋堂書店から山田脩二さんの新しい写真集『新版『日本村』1960-2020』(平凡社、2020年)が届いた。先日(1月6日)お店を訪れたときに買うつもりだったのだけど、ちょうど在庫がなく、それならばと山田さんの展覧会が開かれているkanzan galleryで買うことにしたものの、会場で実物を手に取ってみると思いのほか大きくて重く、持って帰るのが大変そうなので断念したのだった。28.5×28.5cm、442ページ、函入り、12,000円+税。

山田さんの写真は「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」でも多木さんの写真との比較で話題にしたし(動画後編56:10頃〜)、それなりに知っているつもりでいた。けれどもあらためて大判で印刷の質もよい写真集で観てみると、思っていた以上に引き込まれる。
建築関係者にとっては特に第1章「突出し始めた巨大建造物 1966-1971」が、いわゆる「これだけでご飯3杯はいける」という写真ではないだろうか。《霞が関ビル》《パレスサイドビル》をはじめとする12の巨大建造物が、設計者名は記されずに、建築家の作品というよりは都市の現象として、周囲の街並みとの対比のなかで捉えられている。一般にそういう写真は、建物の新旧や大小や高低の対比を際立たせてジャーナリスティックで告発調になりやすいけれど、山田さんの写真は不思議と中庸の品があり(山田さんに暴力的な都市開発に対する批判意識がないわけではないだろう)、都市の現象をありのままに見つめているような印象を受ける。
その客観的ともいえる全体のあり方は、同時に「主題」以外の魅力的な細部を写真に包含させることにもなる。山田さんの写真がどこまで「建築写真」らしいかはともかくとして、しばしばその超越性を批判される「建築写真」は、しかしその撮影者自身も超えるような超越的なまなざしを持つからこそ写し取れるものがある。たまたまその時そこにいた豆粒のような人々や電信柱の張り紙、場末の飲み屋の看板、空に浮かぶアドバルーン……(多くの写真で物干し台の洗濯物が目に付くのは、晴れた日に太陽を背にして撮影することが多かったことを示しているのだろうか)。そうして時を経た写真に残る小さなものに目を凝らし、思いを馳せるのも、机に広げた写真集をのぞき込む体験ならではという気がする。
 
以下、最近古本で買った『新アサヒカメラ教室4』(朝日新聞社、1979年)より。建築写真のパートの執筆者は、渡辺義雄・高井潔・山田脩二の3名。

 しかし、オーソドックスな建築写真は、撮影の対象とされたひとつの建物のみにあまりにも表現が集中しすぎてしまい、おとなしい優等生的な美しい建築完成写真になってしまう傾向が強いようである。エネルギッシュに変貌する都市や街の中の建物の表現が、ただ美しいというだけで、生きた姿から遠ざかってしまっては困ると思う。[…]
都市空間におけるドキュメントとしての“よい建築写真”とは、この不調和で、多要素が混在しながら膨張する都市へのまなざし(視点)なしには撮り得ないだろう。

  • 山田脩二「建築写真と都市空間」『新アサヒカメラ教室 4』朝日新聞社、1979年