ツイッターで政治に関する発言をして、たくさんリツイートされたりすると、妙に浮ついたような足元がおぼつかないような気になってしまう。また逆にまったく反応がなくても、なんとなくみじめな気分になってしまう。

「昔は馬鹿は黙っていたものなのに今は馬鹿である程ものが言い易くなっているとするとそれが今と昔、日本の現代とそれ以前の時代の違いっていうことになりますか。」

  • 吉田健一『絵空ごと』河出書房新社、1971年、p.84

好んでよく引用してしまう一節(2014年9月21日)。小説内の登場人物のセリフだけど、作者である吉田健一自身の言葉として受け取ってもいいだろう。馬鹿は黙っていたほうがよい。僕自身そういう意識が強く、自分でも確信がないことについてはなるべく発言したくない。
この吉田健一の言葉は、それこそ昨今ツイッターなどで頻繁に飛び交っている、相手を黙らせるための呪いのような言葉にも通じるかもしれない。ただ、吉田健一が言う「馬鹿」は、無知な非専門家に対してではなく、むしろ当時の賢しげな知識人に向けられていたと思う。彼らを進歩的に見せる理屈っぽい借り物の言葉に対する苛立ち。だから重要なのはそれぞれの言葉がそれを発する人の人生の実感に根ざしているかどうかのはずで、そこで素人か専門家か、また有名か無名かは問題にならない。そう考えると、たとえば発言に一定の専門性が求められる科学や歴史などとは異なり、政治は(そして建築も)素人が日常の地平で自分の言葉を語ることに意義が認められる領域だろう。とくに今の日本の政治の破滅的な状況では、素人の「馬鹿」ではない確かな言葉が一定の可能性を持っているようにも思われる。