マーティン・スコセッシ『沈黙 -サイレンス-』(2016)を家で観た。江戸時代のキリシタンと宣教師の弾圧を題材にした話。原作である遠藤周作の小説『沈黙』(1966)は数年前に香山先生との対談のなかで言及されてもいたのだけど、その時もその後も読んではいなかった。

日本でも遠藤周作が『沈黙』(1966)という小説を書いたでしょう。苦しくて苦しくて、神様にどうしてくれるんですかと何度も聞いても、神は答えない、沈黙しているという話です。あのとき日本のカトリックの人たちは、なんて反キリスト教的な物語を書いたのだといって遠藤周作を非難しました。しかし神は沈黙しているんです。

なんとなくの想像では、弾圧する幕府側を絶対的な他者/悪とし、それに向かい合うキリスト教徒の内面(受難)を問題にした物語かと思っていた。しかし映画では日本の奉行や役人が単純な悪ではなく、意外と知的・理性的に描かれていて(非現実的と感じるほどに)、全体としてより複雑な世界像が示されていた。歴史的にキリスト教の布教が西洋諸国の帝国主義と表裏一体であったことや、その後の世界史および現代のグローバリズムなどを知っている立場から見ると、近世の日本におけるキリスト教徒への弾圧は、非西洋国による正当防衛的なレジスタンスであり、その歴史的成功例の一つであるかのようにさえ思えてくる(現実に弾圧に苦しむ人間がいたなかで、そうした超越的な見方が妥当なのかどうかはまた別の話。というかその現実と観念との葛藤において、観客一人一人もまた現代の自分に迫るものとしてこの映画が描く問題に向き合うことになる)。
こうした多元的な物語の構図は、「沈黙」という中心的なテーマを弱めもするだろうけど、僕としては作品世界に抽象的な広がりが感じられて興味深かった。だから具体的な史実に寄り添った物語というよりは、そこから要素を抽出し(あるいは設定を借用し)、様々な人間が追体験可能な、より普遍的な物語に組み立てたという印象。これはもしかしたら遠藤周作の原作に基づくというより、スコセッシの人生や思想によってアレンジされたあり方なのかもしれない(よく知らないけど、遠藤周作のような日本人でクリスチャンの作家がまずオリジナルで『沈黙』という小説を書こうとしたときに、こういう俯瞰的な視点はとらないような気がする)。原作もそのうち読んでみたいと思った。映画でも他に、篠田正浩による『沈黙 SILENCE』(1971)があるらしい。