今日で『建築と日常』No.0を刊行してちょうど10年(別冊『窓の観察』を刊行してちょうど7年)。香山先生や坂本先生に連絡を取ってインタヴューをしたり、大橋さんに雑誌のロゴを作ってもらったり、初めてInDesignに触って自分でレイアウトをしたり、いろんな書店に足を運んで営業をしたり、そういうことはみなせいぜい5年ほど前のことのように思える。しかし10年続いた(といってよいかどうかは心許ない。実際、最後に刊行したのは去年だし、今のところ次号の見通しもない)からといって、個人雑誌の活動に手応えを感じているかというと必ずしもそうでもない。充実した誌面を作ることに関してはそれなりに手応えを感じてきているものの、読者や世の中の反応に関してはあまり手応えがない。むしろそのふたつは反比例しているような気さえする。
この10年で変わったこととして、ものごとを観る目が確かになったとは思う(単に10年分の経験を積んだということではなく)。一般に「貧すれば鈍す」といわれるけれど、自分の経験からすると、むしろ貧すると感覚が鋭くなるというほうが正しい(良くも悪くも。ルサンチマンをともなって過敏にもなりうる)。前の会社を辞めてフリーランスの不安定な場に身を置いてから、ひとつひとつの作品や文章や活動が、ひとの人生にとって本当に価値を持つものかどうか、前よりも切実に感じられるようになったと思う。ただ、そうやって自分なりの世界観が培われた一方で、その世界観と相容れないものごとを斥ける傾向も強くなっているだろう。それは自宅やその近辺で仕事をし、用事がない人とは自然と会うことがなくなっていくような生活のスタイルとも関係していると思う。
よくないものをよしとしないことは大切なことに違いないし、僕が尊敬するような人の多くはそういうこだわりを抱えて生きている(あるいは生きた)はずだ。自分自身がよしとする世界観をあくまで批判的に省みながら、それでも残る自分の信念と現実の世界との折り合いをどのレベルに見定めるのか。この先、真面目に考えなければならないことだと思う。