性差の問題でも労働の問題でも教育の問題でも、「弱者」における権利がSNSなどで主張されるのを見ていると、「権利」と「均質空間」が、ともに近代という同じ時代に絶対化したものであることに思いを至らせられる。そこでの「権利」は、あの人にあってこの人にないというものでは役に立たないから、それがひとしくあまねく成り立つ、均質的で普遍的な空間像や世界観が前提にされている。たしかに「権利」という概念を持ちださなければ他になにも頼れるものがないという悲惨な状況は世の中に多々あるに違いないけれども、そういった具体的な状況を抜きにして抽象概念としての「権利」の存在が自律的で自明のものとして語られるとき、むしろそれぞれの場所の多様性や固有性を無視して世界を独善的に秩序づける「均質空間」という空間図式の負の側面を感じさせることがしばしばある。