昨日は午後1時過ぎに東武ワールドスクウェアを出て、電車とバスを乗り継ぎ日光東照宮を訪れた(そういえばさすがに東武ワールドスクウェアには同じ市内の東照宮ないし陽明門のミニチュアはなかった)。そして日光で一泊し、今日あらためて周辺の寺社を観て回った。東照宮(1636年造替)は小学校の修学旅行(1990年)以来だけど、そのときのことはかろうじて鳴龍や三猿の記憶があるかないかという程度で、ほとんど覚えていない。3年前の『建築と日常』No.3-4()で大きく取り上げた大江宏(1913-1989)が東照宮を高く評価していて、そのうちまた行ってみたいと思っていた。以下、大江の発言。

 私は、物心がついたころには日光にいて、おやじ[大江新太郎]の仕事といえば、ほとんど社寺だとか典型的な木造の住宅という、そんな雰囲気の中でずっと育ってきたから、建築として特に教わった憶えはないけれども、知らず知らずのうちにそういうものが自分の血肉になっていることはあるでしょうね。
[…]
 日光はまさに二荒山域全体から、松並木までも含めてプロセッションですよ。構成も決して一時的な構成ではない。しかも全体を流れる、気配が、気配というのは人間と建築を結び合わせる直接のジョイントで、その気配が、人間がどんどん時間的にも、空間的にも移動していくのに従って、からんでくる。
 日本の伝統というのは、いまの日光も含めて、非常に異質のものが複数寄り集まりながら、一時的な単純な構成でなくて、重なり合っている。もし日本の伝統というならば、そういう点にあるんじゃないだろうか。それは特殊性とはもはやいえない。世界に共通しているかどうかはしらないけれども、かなり普遍的なるものとして確信を持って認識してよさそうだということが、だんだん強まってきている。ただ日本のものは度はずれて、その点で洗練されて、突っ込まれている。

  • 大江宏インタヴュー「併存混合としての日本建築と現代建築」聞き手=武者英二、『建築雑誌』1981年2月号(所収:大江宏『建築と気配』思潮社、1989年)

日光東照宮は「個々の建築/境内の領域全体」というレベルと「個々の装飾(彫刻)/一つの建築の全体」というレベルの二つの「部分と全体」が重なり合った構造をもち、その二つのレベルの両方で一般的な社寺建築よりも「部分」が個性的で強いという特徴をもっている。建築界では特に1930年代にブルーノ・タウトがその華美な建築を「キッチュ」と酷評して以降、桂離宮伊勢神宮との対比で低く評価される傾向があったのに対し*1、大江宏は上記のとおり、個々の建築のオブジェクトとしての自律性よりも、それらを要素とする領域全体がつくる環境性を重視し、東照宮の価値を説いた*2
今回、「二荒山域全体」で「気配がからんでくる」というところまで大江の感覚を共有できたかどうかは心許ないけれど、少なくとも東照宮と大猷院のそれぞれにおいては、個々の建築がその自然と人工が拮抗する配置計画全体のなかで響き合うような、領域としての空間性を感じることができた。ただ、そうした響き合いにはおそらく個々の建築の装飾的・様式的な強さや多様さも作用しているのだろうけど、今の時代や僕自身の認識の制約もあるのか、装飾や様式それ自体を存分に楽しむまでには至らなかった。やはりそこまで確かに体感できないと、東照宮の真価は捉えられないような気がする。以下、東照宮の写真7点。







今回いくつか目を通した東照宮関連の本のなかでは、大河直躬(1929-2015)の『東照宮』(鹿島出版会、1970年)が特に興味深かった。おそらく建築分野での基本文献と言ってよいのだろう。日光の国宝建造物の修理・調査に携わった著者が東照宮をめぐる歴史を分かりやすく解説しつつ、その建築を自らの体験的なレベルで丁寧に分析し、実感に根ざした推論が説得力をもって展開される。著者は基本的に大江宏と同じく、建築界の反東照宮派(?)に対抗する立場で、建物同士の関係や境内の配置、シークエンスに意味を見ているけれど、それとともに東照宮の多様な装飾や様式の混淆に対して歴史を自在に扱うマニエリスティックな手つきを指摘したり(パロディという言葉が使われている)、空間の運動性や構成要素の対立性に同時代の桂離宮との類似を見たり(一般に二つの建築は対極的に位置づけられることが多いのに対し)、設計者の主体性に疑いを示したり、それこそヴェンチューリの建築論を彷彿とさせるような、1970年前後の先端的な建築批評の有り様も窺わせる。以下、いくつか抜粋(復習として後から読み返すと、また現地を確認しなければならないような気持ちになってしまう)。

 このような建築彫刻にみなぎる生気は、陽明門内部に安置された随身像、すなわち当時の最高の仏師たちの彫刻作品の堅く冷い表情とは著しく対照的である。この竜や唐獅子を制作したのは、当時の大工たちのなかでも腕の秀でた人々であるが、それらの人々が、一つ一つをじつに興味をもって、楽しみながらつくったように感じられる。ここにみられるのは、建築における左右対称とか規則性を無視するような、じつに自由な制作態度である。陽明門の表現の特色は、このような自由さ、奔放さが、まえに述べた唐様的な建築の方法、つまり建築本体の唐様や、白・黒・金という色彩や、中国的な主題などと結びついているところにある。したがって、この建築を指して、冷厳なとか、威圧的なというのは当たらない。反対に右の彫刻群は、虚心にこの建築を見る人を、じつに楽しませてくれるものである。
 またこの彫刻群は、その運動性、非対称性によって、東照宮の建築の配置の中心にある陽明門が固定的、静的な表現に陥ることをうち破っている。陽明門はさきに述べたような、その色彩の独自性によって、他の建築群に対して焦点のような位置にあり、それだけ運動性を失いやすい傾向をもっているが、それに対し彫刻の奔放さが、微妙な均衡をもたらしているのである。このような点にも、東照宮の建築彫刻の、たんなる装飾的附加物におわらない建築上の意義を認めることができる。(pp.167-168)

 右のようにみてくると、東照宮とそれをつくりだした人々の関係について、大づかみな特色を描きだすことができる。
 まず、東照宮を装飾も石工事も含んだ総体的な建築作品としてみると、制作の主体は一つではなく、併列的な多くの核をもっている。建築様式や彫刻を軸にした統一は甲良宗広が行なうが、その統制下に縛られない絵師・石工・蒔絵師・鋳物師などが自分の分野をもって仕事をしている。
 つぎに、狭義の建築制作の主体となった甲良宗広の立場を考えると、その指導は各建物の様式、彫刻の主題、基本的な色相に重点がおかれている。配置については、建物相互の有機的な関連性が課題になっている。しかし個々の彫刻や細部の形は、個々の工匠の創意にまかせるところが大きい。
 このような制作指導の方式の特色をよく考えてみると、それは規則的に処理し得ないもの、図上に確かに明示できないものを多く含むという点で、客観性よりも、むしろ主観性にはるかに富んでいる。
 また個々の部分の制作は相対的な独立性をもつから、古代建築のような統一的秩序を志向するより、建築に奔放な、暗示的な性格を与える(このことは優れた能力の協力が得られるばあいは、強い効果を発揮するが、失敗するときは主題の破たんを生ずることになる)。そのほか、東照宮の「作者」という問題を考えると、そのすべてを甲良宗広一人に帰することが、誤りであると同時に、そのすべての表現が規則的に統一されていないからとの理由で、作者の存在そのものを否定するのも誤りであることに気が付く。
 そしてそのような非歴史的な評価を離れてみれば、そこに主観的な建築表現を通じて、大規模な建築群に自己を反映させることのできる制作主体としての個人(ここでは甲良宗広という個性)が登場していることを、はっきり認めることができる。(pp.94-95)

 近代ヨーロッパに成立した「建築家」の理想像を前提にする人は、建築の様式・構造・材料など、あらゆる要素が、建築制作の主体である建築家の厳密な統制下にあって、その創作理念に従って決定されるべきだと考えがちである。しかしそれが現代においても、一箇の幻想にすぎないことは明らかである。
 建築家が選択し、支配できる要素は、多くの建築を構成する要素のなかでは部分的に過ぎず、それはその時代の建築様式と建築生産組織、さらには社会そのものによって決定される。現代では建築家は、一般に建築の立面を自由に決定し得ても、その敷地の形を変えることはできないが、これは古代の人々からみれば、むしろ正反対の不思議な現象であろう。(p.89)

 さて、右のように本社の表現は、その外部においても内部においても、私たちの歩行や、あるいは私たちの視線の方向と密接に結びついてつくられている。その建築の空間は、静止したものでなく、一種の運動性をもった空間である。それは固定された一視点や室内の一隅からの観察では容易に理解できないものであり、私たちじしんの運動にしたがって現われてくるもの、生まれてくるものである。したがって本社の建築を眺めるときは、私たちがそれをみおわったという感じは起こらず、再びそれをみるときなにか新しい発見があるような感じがつきまとう。
 このような空間の運動性は、じつは本社だけにみられるものではなく、すでに最初に述べたように、東照宮の建築群全体を通じて現われる、大きな特色といってよいであろう。水盤舎にしても、陽明門や唐門にしても、それらは私たちが境内で歩き続けるその運動にかかわるものとして現われてくる。それらの建築にとりつけられた飛竜や、唐獅子や、舜帝の彫刻だけがシンボルなのではなく、建築そのものが空間の運動性のシンボルとなっているのである。
 この空間では、各建築はそれじしんの表現の相対的独立性を弱め、反対に配置の立体化、様式の対照、色彩の集中などの手段を通じて、運動する空間それじしんに帰属する。唐門に現われるような構造の変形や、陽明門に現われる一種の幻想性も、このような空間において、それぞれの意味を発揮する。それは古代建築における様式の統一秩序とは別の方法によっての、建築の綜合的な秩序の追求である。古代のそれを客観的と呼ぶとすれば、東照宮のそれは主観的、あるいは主知的な性質をもっているというべきであろうか。(pp.201-203)

 また両方の建築[東照宮桂離宮]が、複雑な対立的要素を含みながら構成されている点にも注目すべきであろう。たとえば東照宮における建築の構造部分の表現とそれに拮抗するような力強い彫刻の表現、陽明門まえの景観の対称的な配置と一方ではそれを打ち破ろうとする強い志向。桂離宮においてもふつうその特色とされる構造部分の簡素な表現に対して、様々な珍しい建築材料、異形の下地窓、蘇鉄のような異国風な植物などが、装飾や点景として利用されている。二つの建築はそのような対立が様々にくりかえされる果てに生まれてくる建築の世界である。(p.205)

下の写真5点は輪王寺大猷院。家康を崇拝して東照宮の大造替を進めた三代将軍家光の霊廟。急な階段が直角に折れながら続く動線で、上と下の場所性の違いが大きく(上のレベルに立つと地面が空中に浮かんでいるかのような錯覚が生じる)、東照宮よりもドラマチックな構成になっている。本殿まで階段で高く上りつつも、その本殿がある場所は山が掘り込まれてなお高い石垣に囲まれていて、空間の垂直性、自然と人工の対比を強く感じさせる。





この大猷院は東照宮より人がまばらだったこともあってか、僕には思いのほか印象深かった。ただ、大河直躬の『東照宮』では下記のように、東照宮の配置計画と比べて批判的に評価されている。そう言われるとそんな気もするけれど、もしかしたらこの評価には民衆や祭りといったものに対する著者の思い入れも影響しているのかもしれない。

 さて、右のように大猷院と東照宮の配置を比較してみると、同じような霊廟の建築的構成をもちながら、その空間の表現が大きく変化していることに気が付く。
 そのなかでいちばん重要なことは、東照宮でみられた空間のひろがりと、それをとりかこむ建築との緊密な関係が失われ、むしろ歩行の軸線に沿った景観の変化の面白さのみが、より意識的、技巧的に強調されていることである。
 このような変化の効果の認識は、明らかに東照宮の経験によって得られたものであろうが、しかしその性質はかなりちがったものになってしまっている。東照宮のは、大きな建築的空間のひろがりと結びついた変化の面白さであるが、大猷院のは路線に沿った変化だけの技巧的演出である。
 また使い方の面からみると、大猷院の配置は、もはや多くの群衆が祭礼のとき活動できる空間ではない。幅広い参道や正面の升形は存在せず、急峻な折れ曲った石段は、群衆の存在を想定すると危険なものである。それは少人数の参詣にのみ、表現効果を充分に訴えてくる。これらのことは、まえに述べた御宮と御霊屋の社会的性格の相違を背景にしているが、建築の空間の捕え方じしんに大きな相違があるといえよう。(pp.134-135)

以下、その他周辺に散在する社など。小雨が降るなか石畳の山道を歩くのはなかなか大変だったものの(iPhone歩数計によると今日1日のトータルで、ウォーキングの距離は18.8km、歩数は29,586歩、上った階数は60階)、他に観光客もほとんどおらず、木々や石が雨に映えて気持ちがよかった。日光の原形を想像させる。






*1:内田祥士『東照宮の近代──都市としての陽明門』(ぺりかん社、2009年)によれば、岸田日出刀は東照宮について「こんな建築は二度と経験したくない」と述べた。

*2:ただし、次のような発言を見ると、大江は東照宮の装飾過剰な個々の建築そのものも好んでいたように思われる。「建築の中でいちばん建築らしい建築はブルボン王家の建築、なんていうことを言い出すと、そこで頭に浮かんでくるのが過剰装飾ね。過剰装飾がいちばんそれを端的に言い表している。あえてぼくはそれをバロックとかロココとか呼ばない。それこそ王様も職人も、あるいは建築家と呼ばれる人もいたかも知れないが、そういう人も、夢中になってこれに取り組んでいた。起承転結がどうあろうと、そんなことはお構いない。夢中になればいい。みんなが夢中になっていた。その夢中さには邪心の入る余地がない。みんなが過剰などということには思いもよらなかった。」(大江宏インタヴュー「建築に中心はあるか」聞き手=小谷部育子、『建築雑誌』1987年12月号)