『RAKU』vol.14の特集(8月14日)のテキストは、最終的に執筆が学生15人の連名で、監修として僕の名前を表記した。できれば個々の文(400字×20本、140字×29本)に担当の学生個人のクレジットを記すだけで済ませたかったのだけど、実際の作業内容を考えると、それをするのはちょっと無理があると判断した。
根本的な言語化の能力や作文の技術はともかく、全体の傾向としてけっこう難しかったのは、学生たちがみな、対象となるキャンパスの建物を実際以上に誉めすぎてしまうということだった。具体的に指摘してもなかなか直らない。それは今回の『RAKU』に限らず、わりと現代的で根が深い問題のように思われた。わざわざ大学の媒体で取り上げる以上、批判や否定をするよりは肯定的に書きたいという気持ちは理解できないでもないけれど、例えば平凡な全面ガラス張りの建物に対して、あたかも妹島さんの作品を誉めるかのように誉めてしまう。それは裏を返せば、単にその建物のことが分かっていないというだけでなく、妹島さんの作品のような非凡な建物のことも分かっていないということになる。
『RAKU』の制作は学生たちにとって学びの機会でもあるので(実際、単位として認定されるらしい)、考えようによっては、今回の作業でそういう「分かっていなさ」が明らかになったのはよかったのかもしれない。仮にこれが実際に(妹島さんの作品のような)非凡な建物について書くという課題だったなら、同じような文が提出されても、表面上はなんとなく気が利いているように見えてしまう。「分かっていなさ」が明るみに出ることなく、そのまま受け入れられてしまいかねない。そういう文は世の中に案外多く潜在していて、それこそ88年前に谷口吉郎が「自身さえも飲み込まれていない内容を、言葉の形式で盛り上げる仕業は、他を混迷にし、建築を毒し、建築の健全な発展を阻害するばかりではないか」(8月8日)と指摘しているのも、程度は別にして、まさに同型の問題だろう。柳宗悦の「私は有名な美学者にして、少しも美の見えぬ人の数々を知つてゐる」(2017年12月18日)という指摘も同様のことを指していると思う。そうした虚構を見極められるようになるかどうかは、大学で学問をするなかで極めて重要なことに違いない。
平凡な建物について書く場合でも、変に上げたり下げたりせず、絵画で写生をするように、その建物について「普通に書く」ということはできる。特に建築は技術や社会や風土や歴史など様々な網の目のなかで成り立っているので、どんなに平凡な建物でも(むしろ平凡な建物こそ?)、一つの建物からそういった大きな広がりを示唆することはできると思う。そしてその広がりを確かに認識してこそ、そことは一線を画す非凡な建物のこともより正確に捉えられるようになる。今回の特集でキャンパスの身近な建築を対象にしたことが、そういう経験に繋がっていくことを期待したい。