ホン・サンス映画でお馴染みの緑色の壜。作品をより深く理解するために飲んでみた、というとネタっぽいけれど、実際関係なくはないのだろうと思う。単に毎回のように酒を飲むシーンがあってこの壜が小道具として出てくるというだけでなく、もっと他の要素とも一体となって、作品世界の秩序を支えるような存在としてこのお酒があるという気がする(撮影中に本当に飲んでいるわけではないとしても)。風土という言葉を持ち出してもいいかもしれない。
とりあえず特集上映が終わったので、しばらく前にコピーしてあった佐々木敦さんによる評論「反復と差異、あるいはホン・サンスマルチバース」(『すばる』2018年7月号)を読んでみた。「ホン・サンスの映画が、なぜかくも互いに似かよっているのか」という問題はまさに僕も気になっているところだし(7月1日)、ホン・サンスについての日本語の評論はあまりないので、作品を論じるフレームの設定の仕方や視点の置き方など、色々と新鮮で思考を触発させられる。ただ、論の根幹をなす以下の指摘は、作品に対する直観のレベルで、僕にはどうも共感しづらい。

ホン・サンスの映画には、ほとんど視点ショットは出て来ないが、その代わりに、とりわけ他ならぬズーミングという特異な技法の多用によって、あたかも映画を構成する画面全部が、その作品世界の創造者である彼自身の視線の内にあるかのような印象が、他の監督の映画よりも非常に強く感じられるのだ。つまり、ホン・サンスの映画を見ているのは、誰よりもまず第一にホン・サンス自身なのだということである。彼の映画は、いわば全てが彼自身の視点ショットなのだ。[傍点省略]

僕自身はどちらかというとこの指摘とは逆に、ホン・サンスの映画のまなざしには個人的なものを超えた超越性や抽象性を強く感じる(多用されるズームも人間的というより機械的な印象)。例えばそれは小津安二郎の映画に近いようなものだと思う。小津はズームやパンなどのカメラの運動を好まなかったので、この連想は我ながら不思議だけれど、両者は作風というよりもそれ以前の日常に対するまなざしや思想、世界観に近いところがあるのではないだろうか。ホン・サンスの映画の構成、時空間を組み立てる超越的な手つきからしても、ホン・サンスが現実を「ある程度」客観的に引いて見ていることは察せられる。それはホン・サンスが、「私には、セザンヌの立ち位置、具象性と抽象性のバランスがぴったりくるんです」(2013年5月31日)と言うことと通じていると思う。
そういえばある時期までのホン・サンスの映画には露骨な濡れ場が頻繁にあったけれど、最近は特に見られない。だんだんと作品がメジャーになって、製作上、そういうシーンを入れにくくなったということだろうか(ホン・サンスはキム・ミニでも濡れ場を撮れるだろうか)。というよりそもそもどうしていちいち濡れ場を入れるのか、それらの作品を観てすこし疑問に感じていたような気もする。セックスシーンはそれを写すカメラのあり方が如実に表れそうに思えるけれど、ホン・サンスのかつての作品ではどうだったろうか。