クレアのカメラ

ホン・サンスクレアのカメラ』(2017)をヒューマントラストシネマ有楽町で観た。今回のホン・サンス4作同時公開はまだもうすこし続くのかと思っていたら、今日がとりあえず東京での最終日だったらしく、慌てて夕方の上映に向かった。見逃した『夜の浜辺でひとり』(2017)はまた次の機会に持ち越し。しばらく時間をおいて観るのもよいかもしれない。
クレアのカメラ』は69分の中編。キム・ミニとイザベル・ユペールがともに参加した2016年のカンヌ映画祭のタイミングをねらい、現地で短期間で撮影されたらしい。あるいはそれが制約になったのか、ホン・サンスらしい時空間の組み立ては今一うまく決まっていない感じがした。(かつてブニュエル的と評されたような?)人間の二面性の描き方もどこか中途半端に思われた。ホン・サンスの映画は必ずしも明快ではなく、様々に像を変える曖昧さが魅力にもなっているのだけど、それはあくまで強度のある「曖昧さ」であって、この作品はその強度に欠けているかもしれない。登場する浮気者の映画監督は風貌が妙にホン・サンス本人に似ていて、このまえ(7月31日)書いたようなウディ・アレン的自己投影(フィクションとリアルの重ね合わせ)を強く感じさせた。
たまたまかもしれないが、ホン・サンスの作品のうち、名のある外国の役者を中心にして描かれた作品──『3人のアンヌ』(2012)、『自由が丘で』(2014)、『クレアのカメラ』(2017)は、それぞれ興味深いものだとはいえ、ホン・サンスの他の作品に見られる類いまれな充実にまでは至っていないように僕には思える。その方向に可能性がないとは思わないけれど、やはり「多種の作を欲するは自然ならず」()という意味で、ホン・サンスが慣れ親しんでいるはずの韓国の情景を描いたほうが、今のところ作品の充実に繋がりやすいのかもしれない。慣れ親しんだ条件でものを作るというのは必ずしも保守的な方法ではなくて、その人がそれまで進めてきた創作のさらに先を目指すために有効かつ自然な方法だと言ってみることもできる。