ホン・サンス正しい日 間違えた日』(2015)をヒューマントラストシネマ渋谷で観た。ある男女の刹那的な出会いを2つのパターンで描く。Aのパターンが終わった後、そのまま話が最初の時点に戻り、Bのパターンが始まる。登場人物の言動や気分のわずかな違いによって、物語の展開が変わっていく。
観客はあらかじめ2つのパターンが直列になっているとは知らされていないから、ホン・サンスの映画を観慣れている人には、ある程度映画が進んだ段階でも、もっと複雑に時空間が組み立てられているのではないかと疑わせるけれど(僕自身がそうだったわけだけど)、この作品はAとBが特に干渉しないまま併置されるという、比較的シンプルな構成だった。前作の『自由が丘で』(2014年12月29日)がかなり複雑だったので、それと対照的なものとして、こういう構成になったのかもしれない。即興的に撮られるホン・サンスの映画で、各シーンの撮影の順番はどうだったのか、役者はこの構成を知っていたのか、考えると色々興味深い。
観客はまず単純に2つのパターンのずれや響き合いを楽しむことができる。ただ、こういう「同じ時を繰り返す」タイプの映画は必ずしも少なくないだろうけど、その多くは、例えば『恋はデジャ・ブ』(1993)や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)のように、時間の繰り返しを登場人物が自覚し、複数のパターンが全体の物語の内部に位置づけられたものであるような気がする。それに対してこの『正しい日 間違えた日』では、2つのパターンはあくまで別々に存在し、投げ出される。登場人物はその世界の複数性に気づいておらず、それを見通せるのは観客だけ、という点にホン・サンスの創作の特質が見いだせるかもしれない。登場人物たちによって繰り広げられる出来事の世俗性と、それを眺める観客の視点の超越性。その知る者と知らざる者の非対称性が、観客自身もまた現実では「知らざる者」であるという気づきをもたらすというか。複数の世界の併置によって一個の絶対的な世界を相対化させることが、皮肉や虚無や達観につながるというより、ある種の安心や開放感を人生にもたらすというような。作品を語ろうとすると同時にその実体からずれていってしまっているという感覚を否めないけれど。
ところで監督ホン・サンスと主演女優キム・ミニはこの作品をきっかけに不倫関係になったらしい。それを知って観ると、ある時期のゴダールアンナ・カリーナの映画、ウディ・アレンダイアン・キートンの映画のような、多幸感に溢れた作品のように見える。そしてウディ・アレンといえば、『正しい日 間違えた日』には出演女優に手を出す映画監督が出てきて、実際に彼がホン・サンスの分身として意図されているかどうかは分からないけれど、それがウディ・アレン的に自分の存在を作品に重ねていくような身ぶりとして、もともと重層化されているホン・サンスの作品にさらなる重層性を加えているように思える。
以上、このまえ(7月1日)観た『それから』(2017)よりもずいぶん長く書いてしまったけれど、実は作品としては『それから』のほうがより優れていると思っている。なぜ『正しい日 間違えた日』のほうが長くなったかといえば、この作品のほうが構成が明快で書きやすかったからだろう。ホン・サンスの映画は一義的ではなく観る者に様々な言葉を浮かび上がらせるような質をもつ反面、その映画の存在は映画を観ている時間の中にしかなく、事後的に対象化しづらいという質ももっている。