5月19日(土)の『建築と日常』No.5刊行記念イベント、昨日で参加募集を締め切りました。ご応募の方全員にメールを差し上げましたが、届いていないという方はご一報ください。

下は先月、会場の下見のために初めて訪れた《西大井のあな》(設計=能作文徳+常山未央)の写真3点です。イベントタイトルは「平凡と作家性」としていますが、トークでの論点の一つとして、SDレビュー2017でこの建築に対して審査員の乾久美子さんが「設計や計画に対する無頓着さ」と指摘されているようなことが問題になりそうです。


しかしながら、二次審査の会場に提出されていた模型などの情報からは、「壊す」という唯一の手法に対する計画的・環境制御的な合理性やこだわりが見えず、設計という次元での評価がかなり難しかった。アイデアやプロジェクトのプロデュース行為だけで満足してしまったのだろうか。こうした設計や計画に対する無頓着さ(あるいは興味のなさとでもいえばいいか)は、〈西大井のあな〉だけではなくほかの民兵系ともいえる作品にも見受けられた。[…]
コトづくりや改修に関わる作品の場合、コトづくりなどに対する評価と設計案としての評価は分離して考え、その両方が一定以上の質を担保していることは重要だと感じている。つまり、設計以外のクライテリアを隠れ蓑にして、設計の熟度の低さを補うようなことはあってはならないということだ。コトづくりは建築家やデザイナーでなくても、さまざまな主体が試みている時代である。また、コトづくりに関わっただけで評価される時代でもない。そうしたなかで、建築家でしかできないことは何かについての本質的な追求がないかぎり、このコトづくりや改修という要素は、設計を華やかにするトレンディな装飾でしかなかったなんてことになりかねない。

  • 乾久美子「新しい装飾への危惧」『SD2017』鹿島出版会、2017年

これまで建築作品と呼ばれるものは、人やモノのネットワークとはあまり関係のない空間イメージのほうに重きが置かれていた。その多くは芸術という名のもとに、アクターとの接続ではなく切断を図ることによって建築の自律性を高め、建築的な価値を主張してきた。そうした自律性は、どの芸術のジャンルにおいても探求すべき事柄のひとつであろうと思う。しかし現代の建築家に突きつけられているのは、自律性の探求に逃げ込むことではなく、グローバル化によって引き起こされた無関係なものに溢れた世界や断片化したネットワークを、建築を通して修復し、より大きな全体性として描き出すことではないだろうか。

建築家として、自分が直接的にすべてをコントロールし、一軒の建物を「作品」としてつくっていくのではなく、情報を徹底的にオープンにすることで、多様な主体と協働し、敷地境界線を飛び越えていくような、そうした建築を生み出すことができないか。それが私たちが考えてきたことであり、モクチン企画/モクチンレシピは、あのとき感じた「無力感」を乗り越えるためのチャレンジです。

  • モクチン企画/連勇太朗・川荑英嗣『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』学芸出版社、2017年、p.23

この辺りのことは、特集号の曽我部昌史さんと中井邦夫さんの対談「最近の非作家性をめぐる状況」でも議論されています。