大岡山の東京工業大学附属図書館で資料収集。しかし『ja』1978年7月号と『新建築』1980年6月号は、コピーしたかったページが切り取られて無くなっていた(いずれも坂本先生の作品関連のページ)。この図書館では前にも同じことがあって腹を立てたのを思い出す。
仮にたとえば区立の図書館で写真週刊誌のグラビアが切り抜かれていても、ここまで忌々しく感じたりはしない気がする。今回のような場合、僕が建築学生のメンタリティをなんとなく想像できるというのもあるだろうけど、やはりそれが学問や文化や芸術に直接関わるものだからこそ、その公共性を顧みない行為に余計に嫌悪感を抱くのだと思う。おそらくその学生たち(かどうか分からないけど)は、建築に対する探究心が高じて行動に至ったわけでもないのだろう。周りで良いとされるものを、その良さを自分では判断さえできないまま(もし坂本先生の建築の良さを認識する能力があったなら、こういうことはしない気がする)所有しておきたいという身勝手な欲望。そして背徳感で味付けされた屈折した満足感。
こういうことをする人間がまともな建築をデザインできるわけがない、そんな確信がある(他のジャンルの創作ならまだしも)。ページを切り取った人が今もし建築設計を生業としているなら、ぜひその作品を見せていただき、そのことを確認してみたい。そして完膚なきまでの批判をしてみたい。あなたが設計したその建築が駄目なのは、あなたが学生の頃、図書館で雑誌のページを切って持ち去ったとき既に決まっていたという劇的なストーリーが、公共性という概念を軸にして組み立てられるはずだと思う。