ホン・サンス『自由が丘で』(2014)をシネマート新宿で観た。加瀬亮の存在とホン・サンスの映画とが今いちしっくり来てない感じはしたけれど、映画として新しい試みをしているということでもあるかもしれない。各シーン同士の関係が超越的な手つきで丹念に組み立てられていることはこれまでの作品と連続するものの、例えばこの前(9月1日)観た『ソニはご機嫌ななめ』(2013)で幾何学的な構成が明快に示されていたのとは様子が違う。
一般に時系列に並んでいる出来事の順番をばらして再構成したような映画は、その構成の妙を作品の核として見せてくると思うのだけど(クリストファー・ノーランとか)、『自由が丘で』ではむしろ逆に、そうした映画的な構成から映画を解放するためにその構成が用いられている、という印象を受けた。言い換えると、任意の出来事の固定された因果律から世界を解放すること。映画の構成はぼやけ、それぞれの場面が重層的に現れ、出来事の余韻だけが残る。この映画のあり方は、以前引用した(9月19日)大江宏の言葉で言われていることと通じるように思う。

建築全体に通じるんだけれど、ひとつの空間のヴォリュームがあって構造的に成り立っている。そして相互にレシオ(比率)がある。それは建物全体のバランスから細部にいたるまで一貫している。しかし、それだけでは建築にはならない。骨格というものを、いろんなもので見え隠れに包んでゆかなければならない。いちばん苦労したのはそこですね。建築的な構成や要素があからさまに見えないということです。だから、ここを見て帰った人がとくにこれといった具体的なものではなく、感覚だけが身体のなかに残って、フィジカルな印象はいつも見え隠れで潜在化させておく。その原理をこの建築全体の基本原理に考えました。

  • 大江宏インタヴュー「混在併存から渾然一体へ」『新建築』1984年1月号(所収:大江宏『建築作法──混在併存の思想から』思潮社、1989、p.123)

また、『自由が丘で』でキーアイテムになっていた吉田健一の『時間』(新潮社、1976/講談社文芸文庫、1998)を参照すれば、「歴史は世界を表すこと、或は世界の一部を通して世界を表すことにあり、それは時間でもあるからそこに時間がなければならなくて歴史の方が小説よりも面白いといふのは下手な小説では幾つかの出來事を組み立てることに忙しくてその出來事が起る爲にその出來事とともにたつて行つた筈の時間のことが省略されるからである」(単行本版p.89)といった認識もきっと『自由が丘で』にはあり、出来事の因果関係の媒体としてではない〈時間〉を捉えようとしたのだと言えるかもしれない(映画に登場する文庫版の『時間』は加瀬亮の私物で、監督自身は『時間』を読んでいないらしい)。以下『時間』から、『自由が丘で』と響いてきそうなところの引用。『自由が丘で』と同じく『時間』も、それを体験するなかでしか現れてこないような作品なので、ある目的のために一部分を抜いてくるという行為にはそぐわないのだけど、とりあえずパラパラとめくってみて目に付いたところから。

時間は何の爲にあるのでもなくてただあるので時間が含む一切のものも何の爲にあるものなのでもない。我々は人爲的とか人工的とかいふことを言ふのに馴れて凡ては人間の仕事であり、それでどのやうなものにもその目的があると考へ勝ちであるが目的はこれを達すればすむものであつて目的といふもの自體にどういふ價値があるのでもないことを我々は見逃してゐる。我々はただ生きてゐるのでこれは生きてゐることが含む凡ての意味でなのであつてもその生きてゐることに目的はなくて又それでいいのであることは寝不足の時の睡眠、空腹を覺えての食物が我々に知らせてくれる。ただあるものの價値を我々が忘れてから久しいとも言へる。[…]凡て我々人間の世界にあるものはただあるものなのであり、それが何かの必要から目的にされたり目的があるものにされたりするに過ぎない。そして目的はそれが達せられた時に消滅する。併しこのことが一般に認められてゐないので最も大きな被害を蒙つてゐるのであるよりは我々の受け取り方が歪められてゐるのが時間であるかも知れなくて時間は有益に用ゐるとか無爲に過すとか時間こそこれを用ゐる目的に際限がないことから目的から切り離しては考へられないものになつてゐる。併しどういふことにも用ゐられるといふのはその凡てを時間が含むものでこれがなくてはどのやうなことをすることも出來ないのみならず一切が停止するからでそれ故に時間に目的があることにはならない。それは世界の目的を考へるのと全く同じことである。その目的が解らないのは初めからそのやうなものがないからでその爲に世界が我々にとつて無意味なものになるだらうか。その世界が時間でもある。(pp.69-70)

一體に一般論といふのはつまらないものである。いつでもどこでも本當であるか或は大體の所はさうだといふのはいつの時間にもどこにも自分がゐないことであつてこの限定があつて人生とはといふやうなことを聞かされてもそれは他人の話に過ぎない。併しそこに時間を加へるならば、或は初めからそこにある時間にその際に改めて注意を向けるならば人生といふのも自分が生きて來たものになつてその味も確實に解り、それが或る一人の人間、或は凡ての人間がそれぞれに生きて來たものであることも明かに感じられることからその人生といふのも實在するものであることが納得される。このことに基いて認めなければならないのは時間の經過が絶えず一つの方向に進むものであるといふことでこれはその刻々の現在が繰り返しが利かないものであること、それ故にその現在に二つと同じものがないだけにそれだけこれが具體的にその現在であることを意味する。そしてそれは物質が時間の經過に從つて消滅するものだからであるが精神にこの拘束はなくて時間の經過から生じた世界のどこにでも又どの瞬間からも精神には現在を見出してそこから時間とともにその繰り返しが利かない形で經過することが許されてゐる。又この經過がその形を取るのは時間も實在するものであることを示すものである他ない。そこに自由がある。その自由の對象は物質の拘束を受けなくて實在するものでそれが實在することを知るのに精神も拘束を受けることがない。併しさうして知るその他の行動をする自由が精神にあるのも時間があつてのことで時間がどのやうなものにも拘束されずに自らを律してゐるその状態に自由の規範が見られる。その外に自由はない。(pp.91-92)