ホン・サンス『ヘウォンの恋愛日記』(2013)、『ソニはご機嫌ななめ』(2013)をシネマート新宿で観た。「映画の日」で料金が安かったので2本続けて観たのだけど、むしろちょっともったいないことをしたかもしれない。それぞれもっとゆとりをもって観るべきだった気がする。
2作の構造を図式的に単純化すると、『ヘウォンの恋愛日記』は(現実と夢の)入れ子、『ソニはご機嫌ななめ』は環状または三角錐(女1男3の四角関係)と言えると思う。とはいえ『ヘウォンの恋愛日記』は完全に明快な入れ子ではないところに映画のテーマや表現の味わいがあるだろうし、『ソニはご機嫌ななめ』も、そのすぐれて幾何学的な形式性は、映画の目的そのものになっているわけではない。たとえば、ある人物が発した言葉が無意識のうちに伝染して別の場面で別の人物から発せられる、ということがコミカルに繰り返される。その反復とズレはこの作品の見どころのひとつであり、そのとき観客は登場人物たちがいる場から引き離され、超越的な視点を得て、物語の環状構造を体験している。それは映画というメディアにおける形式的な面白さ、新鮮さに違いないけれど、かといってそのような形式性ばかりが優先されているのではなく、他人の言葉を自分の言葉として口にしていくという行為を明示するその構造は、同時に「自分とは何者なのか」という人間の真に迫る問いを成り立たせている。
どちらの作品もホン・サンスのいつものモチーフ(男/女、先輩/後輩、先生/生徒、インテリ、酒席、ケンカ…)を用いて、ごく日常的なシーンを描きながら、その表現における抽象性と具象性のバランス(2013年5月31日)によって普遍的な物語となり、人間の真実に触れる。映画の余韻が残っているなかでたまたま目にした『NOBODY』の最新号、『カイエ・デュ・シネマ』の編集長であるステファン・ドゥロルムの言葉に共感するところがあった。

黒澤明溝口健二、大島渚、小津安二郎今村昌平……彼らが偉大なシネアストであったのは、彼らが映画を撮ること自体に向き合っていなかったからです。彼らには見せるべきものがあり、撮るべき顔があり、言うべきことがありました。形式遊びには少しも興じなかったのです。[…]私は形式(フォルム)は二の次で、主題の方が重要なのだと言っているのではないのです。単純に言うなら、主題の力が形式を作品に与えるということです。
───ステファン・ドゥロルム インタヴュー「明日の映画に備えるために」聞き手=田中竜輔・楠大史、『NOBODY』41号、2014 http://www.nobodymag.com/



『ソニはご機嫌ななめ』では、環状や三角錐といった閉じた構造の外側にいる人々(たとえば繰り返される酒席のシーンで、背景の窓の外を行き交う人々)の存在も意識して写されているように見えて印象深かった。道路から建物(3階)のなかにいるだろう人に呼びかけたり、逆に建物(2階)から道路にいる人を呼び止めたりするシーンも何度かあった。